感性を鈍らせる日常生活

「こんにちは」と言おうとした時、当然、相手の顔を見る。
「その顔では、言葉が出てこないで」自分は一体どんな顔をして相手を見ているのか。
それが分かれば苦労をしないが、しかし、自分がどんな顔をしているのか知らないということが不思議でならない。
特に女性などは、一日に何度となく鏡を見ている筈だ。
その時、一体何を見ているのだろうと、それこそ不思議に思う。
「武禅」では、こういった事を検証していく。
そこに携帯も持ち込み、自分の顔を相手に撮って貰うのだ。
自分がどんなことを考え、どんなことを思っている時、「その顔」になるのかを知るのだ。
もちろん、その逆もある。「自分に言われている気がしない」それを真正面から相手に言う。
日常では有り得ないことなのだが、それをしないから、自分の感性が鈍ってしまうのだ。
「相手に話す」「相手の話を聞く」この関係性の基本が無く、そこに方法を持ち込むから、話はどんどん複雑になっていくのだ。
複雑にというのは、方法が間違いなのか、その方法を行う時、何を意識していたら良いのか等々だ。
そんな方法は一切いらない。
「私」が「あなたに」また、「あなたたちに」正面から向かい、声をかければよいだけなのだ。
しかし、その「私」も「あなた」という意識も曖昧だから、そのシンプルな行為が成立しないのだ。
放送作家であり作家でも沢山ある、仲間の押切さんが「聴く」を説明してくれました。
「聴く」は丁寧に耳を傾ける場合に使われ、聞くと区別されています。
「聴く」の「聴」のつくりは「上にまじないの印、十をつけた目の象形と心臓の象形」だそうです。
「目で聴く、目を聴く、心臓で聴く、心臓(心拍)を聴く…」そうした感覚全部を使って感じるのが、本来の「聴く」です。
つまり、「武禅」でも「明鏡塾」でも指導している聞くは、こっちの「聴く」だ。
私の実感としては、もう少し広く、あるいは深く雰囲気までも身体全体で「聴く」が入る。
それは、相互の意識が塗れることでもある。
「私」があり「あなた」があるから、相互の意識を塗れさせることが可能なのだ。
お亡くなりになった演出家蜷川幸雄さん。
その蜷川さんが、役者藤原竜也さんに「もっと、相手に語り掛けるように」とダメ出しの演出していた。
藤原竜也さんの次のステップだそうだ。
関係性というのは、日常生活に限らず、どの世界でも重要なものなのだ。

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