自分からの脱却は
字が汚いと、自分なりに思うとする。
そうすると「美しい字を書きたい」と思う。
それは美意識も入っているだろうし、向上心も入っている。
汚い字を良しとする自分からの脱却だ。
しかし、これを他人から指摘され、「君は字が汚いね」と言われ、自分ではそうは思っていないのに、「美しい字を書かなければ」となった場合とでは、全く異なる結果になる。
「〜なければならない」は、自分自身からの脱却にはならないのだ。
しかし、ここでの落とし穴は、その両者とも「美しい字」を書けるようになる為に教室に通う。
そして美しい字が書けるようになった。
その結果としての美しい字は、他人から見てそう変わるものではないし、違いを見分けるには、相当の眼力が必要だ。
だから、結果として同じだと捉えられる。
自分なりであっても、自分自身が「美しい字を書きたい」とし、教室に行った時、教えてもらうこと以上の収穫がある。
それは、先生の細部に目が言ったり、美しい字というものはどんなものか、という好奇心も芽生える筈だ。
その意味で、例え先生に注意されても、その注意は素直に自分に反映される。
しかし、自分では思っていないのに、習いに行ったとする。
そこで注意を受けた場合、その事にピンとこないばかりか、もしかしたら先生に反発の気分が生まれるかもしれない。
ただただ、注意を受けた箇所の訂正をするだけになる。
そうであれば、その時間が完全なストレスになり、結果として美しい字が書けるようになっても、それは一過性のもので終わってしまう。
もちろん、その過程の中で自分の中から「こうしたい」という気持ちが湧いてくるかもしれない。
あるいは、何時か湧いてくるかもしれない。
となると、逆にそのストレスは良い思い出となり、その時、取り組んでいる事の教則本になることもある。
これらは、人によって全く違う。
人は何によって、自分に目覚めるかは分からない。
言葉を変えれば、現在の自分自身からの脱却は、何時起こるのかは分からないのだ。
その意味で、自分の中に無いことでも他人からの指摘は、何らかの役に立たせることが出来るのだ。
ただ、最初に書いたように、思ってもいないことに取り組むのと、思っていることに取り組むのとでは、その内容が違ってくるということだ。
自分が自分に対して思ったことは、本当に大事な宝物であり、それこそが自分自身なのだから。