社会性はどこで磨く?

昨日は、半期に一度の特養研修だった。
常に立ち止まるのは「言葉」の伝達だ。
それこそ伝達ゲームではないが、最後の人に伝わった時には、真反対の意味になっていたり、とんでもない方向になっていたりする、それだ。
ここで大事なことは、当たり前だが相互確認だ。
それが出来ない、あるいはしない。
どうして?
当たり前の事だが、これは仕事だ。
上司がその「これは仕事だろう」と言う。
もちろん、そのことは理解できる。
しかし、「では、自分にとって仕事とは?」という、それこそ確認があったのだろうか、と考えてしまう。
何となく雰囲気で、その仕事、あるいは会社を選らんで、何となく仕事をしているのではないか。
そんなことも考えてしまう。
しかし、それは仕事に限ったことではない。
日常、そして人生を歩いている、その自分の問題だ。
一般的に、男性は社会性が乏しい。
それは、この職場でも顕著に現れている。
全て女性がリードし、男性が頷くという図式だ。
もちろん、人を介護する、些細なことの役に立つ、という点では、女性に向いている仕事なのかもしれない。
「男女差別だ」、とどこかで声が上るかもしれないが、これは男女の違いだ。
その特性を活かした仕事と考えるのも重要な事だ。
社会性に乏しいということでもう少し考えると、特養などは専門的な仕事の集積ということになっている。
がしかし、本当にそうか、というとそうでもない。
わざわざ専門というものとして作られた資格もある。
普通に考えて、自分のおばあちゃんが、達者に動けなくなった。
耳も遠くなった、多少記憶が曖昧になっている。
そんな状態のおばあちゃんを介護していく、そんなことだ。
それを近所のおばちゃんが様子をみたり、近所のおっちゃんが声をかけたり、という事でもある。
そこに通底しているのは、社会性であり人に対する気遣いという、ごくごく当たり前の事だ。
まず、この事が養われていない子供達が、資格だけをもって、こういった福祉の世界に入ってくる事自体が間違っているのだ。
もちろん、そんな中でも本当の意味で、こころある若者達もいる。
そんな若者に出会うと、どうすればその若者の気持をそのままにし、社会性を体得できるように出来るのかに頭を悩ませてしまう。
それは教室の中では、出来ないことではないが、相当綿密な仕掛けが必要だからだ。
このことは、教育が変な方向に進んでいる事の、一つの現われに過ぎないが。
おかしな方向へ進んでいるということのついでに、こんな話も聞いた。
ある運送業者が、仕事を一段落させ、コンビニでコーヒーを買い、設置してある灰皿の横で一服した。
その後仕事を済ませ会社に帰ると、上司から呼ばれた。
「おまえ、コンビニでサボっていたらしいな」と。
それは、タバコを吸っている姿と、運送会社の車を見た人が会社に電話をしてきたそうだ。
会社に電話をかけた人も人なら、それを伝えた上司も上司だ。
どっちもおかしい。
がしかし、こういったことがまかり通ってしまうのが、今の日本だ。

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