察するという能力
昨日は講演だった。
「武道」のエッセンスというところからの話をした…と思う。
私の講演は3Dだから、かなり複雑に入り組む。
結果、「一体、何の話?」となることもある。
その中で「察する」という話をし、私たちはその能力はかなり衰えているといった。
では、どうすれば良いのか、という質問になった。
察するは、臨機応変であり、その場その場で全て違う。
その意味で、「これが察するである」と、これがプリンです、というようには提示出来ないものだ。
昔、子供の頃には、「タバコと云えば灰皿や、釘といえば金槌やろ」という具合の、気が利くという単純なところが躾けられた。
と、書いていてふと気が付いたのが、やはり察するを育てるのは好奇心以外の何物でもないことだ。
大人のやることに興味を抱き、知らず知らずにそういった能力が育ったのだ。
私の場合は、水商売という客商売の経験があり、そこで徹底的に育てられたという事がある。
以前、どうしてダンサー達は関係性が分からないのか、ということを、ダンススタジオの先生と話し込んだことがある。
それを教育するにはどうすれば良いか等々だ。
それは「無茶苦茶流行っている居酒屋を作るしかないやろ」というのが、私の結論だ。
もちろん、それは居酒屋で無くても良い。
とにかく、周りに目を配り、誰かが何かを欲しているのに気付き行動する、ということをクセ付けすることだ。
それも強制的にだ。
だから、こればかりは、教室でもセミナーでも無理だ。
実践でなければ育たないのだ。