生涯学習というなら

例えば、30数年前「重力」という言葉や現象を手に入れた。
手に入れたというのは、その「重力」という概念を自分のものにした、つまり、使えるということだ。
使えるというのは、日常化しているということだ。
もちろん、ここに大きな幅もある。
そういった概念を使う人は沢山おり、当人は日常化していると信じて疑わない。
では、その中に間違いも混じっているのか、というとそうではない。
それぞれがそれぞれにとって正しいのだ。
ただ、そこに「どの程度か」という差があるだけだ。
人生で大事なのは、この「差」を見極められる目をもっているのかなのだ。
それがなければ、ABCD、それぞれの人が使う言葉の内容に違いがあることで戸惑うだけだからだ。
では、どうして「戸惑う」という現象が起こるのか。
それは、自分自身が自分自身の問題として、自分の力で考えるという作業の量が少ない事が原因だ。
安易に「誰かの言葉」を使ってしまうからだ。
誰かの言葉は誰かの言葉であって、自分が自分の力で獲得したものではない。
しかし、それは言葉だから誰でも使えてしまう。
そこを無意識の内に通過するからだ。
例えば、「自分の考えと同じだ」という感覚がそうするということだ。
もちろん、「自分と同じだ」と思うことが間違いなのではない。
自分と同じだと思うのなら、それ以外の言葉も同じかどうかを検証する必要があるのだ。
もちろん、自分の力でだ。
こういった作業は手間暇がかかる。
受験勉強の比ではない。
もしかしたら10年、20年とかかるかもしれない。
生涯学習というのなら、これが生涯学習だ。
この作業は人生にとって必須のものだ。
当たり前の事だが、私たちは人との関係でしか生きられないからだ。
そこをお手軽に、何かのソフトを持ってきても、自分の実力そのもの、つまり、作業をすることにより獲得された二義的な「感覚」あるいは「嗅覚」を手に入れる事が出来ないのだ。
人生で必要なものは、日常的な注意からしか育たないものだ。

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