自分の都合の良いように
前にも書いたように、今1997年から2005年あたりに書いた雑誌の連載記事を見なおしている。
それは1冊にまとめる為だ。
書いていることは、何一つ変わっていないが、現在の方が中身が濃くなっている分、付け足しが増える。
そうなると、本としての全体のバランスが崩れてしまう。
その辺りが難しいところだ。
私自身であれば、そのバランスの崩れが成長したり上達したりの目安だから良いのだが、本という動かないものになるとそういうわけにはいかない。
また、この時代の事は、既に終わったことだから、私にとっては古臭いのだ。
しかし、私自身がどう考えて現在を作り出してきたのかはよく分かる。
過去は既に無いものだが、体験を振り返る事は出来る。
そして、その体験は何も変わらないのだが、その意味を考える自分自身が変化している事が、過去のレベルを知る契機に繋がる。
しかし、その「意味」というのも、自分の方向性が生み出していることが殆どだ。
端的に言えば、自分に都合の良い様にしか考えないので、意味そのものも定かではない。
ここの「自分の都合の良いように」ということを知ったのは、20歳代の時だ。
正しいこと、間違っていること、という視点だけで物事を考えて行った時、直ぐにそれでは解決出来ない壁にぶつかったからだ。
その時に、「自分が考えているのは、自分にとって都合の良いようにであって、客観的なものではない」と知ったのだ。
もちろん、自分の都合の良いように考えるのが悪いのではない。
私はそれが一番良いことだと思う。
その都合のレベルをどんどん上げて行けば、あるいは広くなるように持って行けば良いのだ。
そうすることで、自分の都合の良いようには、何時しか普遍性を持つようになるからだ。