何かが出来ることの奇跡

上手か下手か、ということではなく、「何をやっているのか分からない」という稽古がある。
当人たちは、きっと「◯○をやっている」と自負しているのだろう。
しかし、これは見える形の話ではない。
形が複雑すぎて、あるいは、それぞれの運動が難しすぎるから「何をやっているのか分からない」となっているのではない。
何を考えているのかも、何をどうしようか、というような意識が見えないのだ。
そのくせ、アドバイスの一つや二つはやっている。
こうなると意味が全く分からなくなる。
出来ない→出来るという図式はどこにでもある図式だ。
そして、それは誰にでも体験する事だ。
初めての仕事、初めての◯◯。
そこでじっくり考えると「出来ない」というのは、他人に見えることであって、当人には見えないことなのではないか、ということだ。
もちろん、当人で見えている人は、的確な「出来る」への道程を行くのだと思う。
しかし、見えていない人には、いくら説明してもその単純な図式を自分のものにすることが出来ないのだ。
出来ない人はどこから始めれば良いのか。
もちろん、一からだ。
その一をどれだけの量をこなし、理解というレベルまで持って行くか。
そこが稽古なのだが、大方の人は稽古をせずに、運動をしているだけになっている。
つまり、「稽古」=理解というレベル迄引き上げられるか、ということすら理解していないのだろうと見受ける。
自分に出来ないことが出来る様になる。
それは自分にとっての、それこそイノベーションInnovationなのだが。

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