自分の可能性を壊すな
人が口にする言葉が、良く分からない事が多い。
例えば「どこそこの◯ケーキは、どこそのケーキより美味しい」でもそうだ。
そんな時は「お前は何様や、どうしてそう言い切れるのか」とツッコミを入れる。
もちろん、他愛もない会話だからどうだっていいのだが。
しかし、ここには個人の成長にとって重要な要素がある。
その個人が美味しいというのは分かるが、だからそこのケーキ屋さんのケーキが美味しいのかどうかは全く別だ。
つまり、その個人の持つ味覚感覚がどれほど練り上げられているのか、つまり、専門職のように客観的視点を持っているのかである。
大方はそうではなく、個人の味覚の方向性だけで口に出している。
それは、もちろん私も同じだ。
どこそこの鰻は美味しいという。
ただ、その場合は、自分の味覚のクセで言っている、ということを知っているし自覚している。
何を言いたいのかというと、自分の味覚を一般的基準として用いてはいけないということだ。
何がいけないのかというと、味覚を成長させる事が出来ないからだ。
自分を絶対だという立ち位置にした時、自分の成長や可能性を閉ざす事になるからだ。
これはどの分野にも当てはまる。
音楽でAよりBの演奏が素晴らしい、とした時、何を比較しているのかを私は自覚している。
音楽に関しては、少なからず客観的視点を持っている。
それは専門職だった時に、徹底的に練り上げたからだ。
しかし、これは自分よりも音楽性が豊かだと思える人、あるいは、同等かと思える人と比較して、客観性があるだろうという話だ。
逆に言うと、音楽に関しての客観的視点を持っているから、自分を成長させる事が出来るとも言えるのだ。
もちろん、それは武道でも同じだ。
単純化して言うと、武道であれば例えば、「居着くは死、居着かざるは生」を体現しているのかどうか、体現しようとしているのかどうかだ。
何故かというと、この言葉は武道史に残る代表的な言葉の一つであり、昔日の達人が残した言葉だろうからだ。
つまり、武道や武術というのであれば、その言葉から実体が垣間見える筈だからだ。
もちろん、流派を問わずである。
そんな視点が自分の可能性を最大限引き出すのだ。