子供の日には

ゴールデンウイーク中ですが「夏の武禅」の申し込みを開始しました。
でも、もう半分埋まってしまっていますので、ご希望の方はお急ぎください。
今回は、バレンシアのスケジュールが動いたので、連休ではない2泊3日になってしまった。
その意味では、参加できない人が多々いるだろうと思うが仕方がない。
今、一つ計画しているのが、泊りがけでは無理という人、あるいは、もっと復習をしたいという人向けに、日帰り武禅を東京でやろうかと思案中だ。
以前、プチ武禅を東京でやっていたが、私が忙しくなりすぎて中止せざるを得なくなった。
私は以前よりも忙しくなっているが、第二の拠点が東京にあるので、ある意味で時間が取れるようになっている。
だから、これを機に日帰りも考えて見ようと思っている。
今日は子供の日。
10歳くらいの時、今から59年前。
「何時の話や!」と自分に突っ込みをいれたが、子供の日と書いた途端に浮かんだことだ。
近所に住むお金持ちの長男と同級生だった。
毎年子供の日には家に招かれて、食べたことのないようなおやつを頂いたものだ。
何といってもこの日の床の間は特別だ。
本物の鎧や兜、そして日本刀が飾られており、それを見たくてこの日を楽しみにしたものだ。
もちろん、子供は刀には触れさせて貰えなかったが、兜の重さに驚いた記憶がある。
今から思い返すと、きっと由緒ある家柄だったのだろう。
石垣があり階段を上がると、重厚なまるで武家屋敷のような門があった。
庭も広くて池もあり、夏はそこでよく遊ばせて貰った。
お父さんもお母さんも、とにかく、その家の人はまるで別の世界の言葉を話しているようだった。
子供なりに、違う世界があることを知ったものだ。
もちろん、うらやましいと思ったことは無かった。
それも自分では不思議なのだが、そういう感覚はまるで持ち合わせていなかった。
と自分の事を振り返ると、他人に対して「うらやましい」という感覚、あるいは、逆に自分を可哀想などと思うのは、周りの大人の影響だと思える。
そういう言葉を周囲が使っているから、それが刷り込まれるのだ。
私は母が芸者で母子家庭だったから、周りの大人の中には「男の子には父親が必要だ」というような事を話していた。
身内の中でもそんな話は出ていた。
しかし、私はその意味が分からなかったので、そういった情緒的な事は全く刷り込まれていない。
刷り込まれている人は、きっと大人たちの言動に振り回されていた人なのではないかと思う。
子供が子供自身で、そんな事を考える筈も無いからだ。
どこかに情報があるから、それを仕入れただけであって、実体は何も分かっていない筈だ。
あるいは、その言葉を使う事が、自分にとって都合が良いと感じたからだ。

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