自分創りの入口は日常にある

熊野の道場は、やはり水が止まっていた。
昨日は雨だったので、時差ボケの身体を引きずりながら沢登りをしてきた。
前回の設置が良かったのか、網に付着したゴミが水の吸水の邪魔をしていただけだった。
明日からは屋根修理だ。
腕を何らかの目的を持ち動かすとした時、何らかの目的が優先し、腕に力みが入る。
例えば、金槌で釘を打つ、という目的があり、それを優先する。
それをというのは「釘を打つ」だ。
つまり、それは目的ではあるが、腕に対する指示ではない。
あくまでも頭の中の作業として「釘を打つ」だ。
だから、腕は具体的には何の指示も受けていないことになる。
そんなことを釘を打ちながら気づいた。
道場を建てている時、数えきれないくらい釘を打った。
その時に気付き、指示を考えて見たのだ。
釘の頭に金槌の頭を乗せるように等々だ。
そして、金槌の重さを感じられる程に軽く金槌を持つ。
金槌に振られるように腕を使う。
そこで肘の重要性に気付いたのだ。
つまり、「釘を打つ」という目的を実現するには、こういった中身がある事に気付いたのだ。
だから「釘を打つ」といくら思ってみても、どんな具体的な作業を伴なえるかがなければ、高度な釘を打つにはならない。
高度なというのは、もちろん、大工さんのようにであり、その大工さんでも棟梁のように、ということだ。
人は何かの作業の連続で毎日がある。
その毎日の作業を、それぞれのスペシャリストのように、と欲張ると、相当毎日が楽しくなる。
そして、「何もできない自分」を知ることとなり、大笑い出来るのだ。
そこが自分創りへの入口なのだ。

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