自分は、自由になれるか

先日の教室でふと気付いた事がある。
といっても、私にとっては何も目新しい事ではない。
30数年前から皆に話していることが、改めて確認されただけだ。
逆に言えば、30数年の検証の蓄積が「確信」になったのだ。
自由とは何か?その自由は手に入れられるものなのか?だ。
これは、フリージャズで所謂集合即興演奏に精を出していた頃からの課題だ。
結果としては、発想の転換であり、逆転の発想があれば可能だということだ。
即興演奏で出した答えと同じだった。
稽古は、「横受け」と、そこからの変化や応用の組稽古をしていた。
横受けという形からのものだが、もちろん、横受けになる為の入り口がある。
そこから運動が起こり、相手に合わせて横受けになる。
そして横受けを経過して次の動作に移る。
それが攻めなのか、二重の受けになるのか、それは相手次第だ。
相手にしても、横受けされた攻めから、横受けの力や方向を利用して、次の攻めに変化するのか、それとももう一方の腕で攻めるのか、足を使うのか。
選択肢は沢山ある。
それらは全て相手との瞬時の兼ね合いが決定する。
そういった、目まぐるしく変わる関係性を稽古していくのだが、そうなった時、型にあるそれぞれの名称、例えば、ここに出ている「横受け」だとすると、それを「よこうけ」だと認識(決定)すると、そこに発展の種は芽生えない。
その名称に囚われるが故に、使い方まで決めてしまうからだ。
もちろん、「横受け」という使い方があり、使える為の身体操作が有り、それが基本になる。
その身体の動きが身体に染みこむまでは徹底的にそこに拘る。
その事で、身体運動においての動きが確立されるからだ。
そして、その動きの流れということを体感できるから、「であれば次はこうだろう」と、身体運動として発展していくのだ。
決して「思い」の発展ではない。
「身体にとっての必然性」が理解できたということだ。
そして「関係性としての必然性」、この2つが自分(思い)から解き放たれた「自由自在へ」の両輪であり、不確定な実際への対処が出来る重要な要素だ。

Follow me!