形の無いものを探す
横受・掛け手を先日アップした。
横受・掛け手が出来たら嬉しい、というような、その事が「出来る事」を目的とする人にはまず出来ない。
その事を通して何を獲得するのか、何を知りたいのか、というような「~を通して」と言う人には実現する可能性は高い。
例えば、この横受・掛け手は、先人の智慧の現れだ。
何の為の智慧なのか、そこが問題なのだ。
もっと言えば、先人の思想だ。
その何の為の智慧か、先人の思想とは、という問題意識が探究心を溢れさせ、実現の為の様々なアイディアが浮かぶのだ。
それが、様々な技を繋げていくのだ。
繋げていくというのは、共通項や原理を発見し、その事で技の質を均等にするのだ。
単にそのものが出来たいとした時、大方はネジ曲がって「出来たような」あるいは、難しくて匙を投げる、もしくは、自分のやりやすい型に落ち着く。
室町時代に端を発した、武芸の流派も江戸時代に入り、大きく分派する。
もちろん、合理的な分派もあれば、本当の暖簾分けもある。
それらは必然だから良いのだが、出来ないから別に流派を作る、つまり、自分が宗家になりたいばかりに流派を起ち上げるというのもある。
しかし、そういった亜流も10年20年続くと、経緯を知らない人も数多く出てくる。
結果、それはそれとして本物だということで認知される。
もちろん、それらが悪いのではない、それを見抜けない人の責任だ。
どんな世の中にしろ、仕事を持たなければ食べてはいけない。
その意味で、悪くはないのだ。
食べる為に工夫を凝らす。
得てしてそういったモノのほうが魅力的な場合がある。
どの視点から物事を見るのか。
そこで、そのものの持つ価値が大きく変わるのだ。