自分の中の先生
10人よれば10人で同じものを見ていないというが、一つは本人が自覚していないが、無意識的にある方向を持っているから、一つは、「これを見たい」という、本人のレベルや目的に応じて、という2つだ。
例えば、ある有名なジャズドラマーが演奏をしているとすると、音楽全体からジャズドラマーの役目があり、その役目をどう演奏しているのかを聞く。
どんなスティックの持ち方をしているのかを見る。
どんな複雑な譜割りを演奏しているのかを聴く。
身体がどう動いているのかを見る。
迫力のある音量を聴く。
もっともっと色々と人によっての見方があるだろう。
単に、信号待ちをしている時、前の横断歩道で待つ男性を見たとする。
どんな仕事をしているのだろう、あのスーツは良いものだ。
余り金持ちではないな、スーツは似合っていないな等々、千差万別の見方がある。
その見え方が自分自身の思考や価値観の現れだ。
武道での型を見た時、あるいは組手を見た時、何を見ているのか。
それを自分が改めて知ることが、自分を知ることの一端でもある。
その意味で、何かを書くというのも大事な事だ。
読み返して「なんや、こんなことしか書けないのか」となった時が、自分が成長する第一歩だ。
自分を育てるのは自分しかいないのだ。
育てるべき自分が、育たなければならない自分を知らなければ話にならない。