エネルギーの正体は

動物が声を出す、あるいは鳴く時、そこには必ず対象や目的がある。
敵に対して、あるいは、味方の確認や合図。
そしてオスやメスに。
つまり、動物は基本的には、対象が無ければ声も出さなければ鳴きもしない。
人も声を出し会話をする。
しかし、それは必ずしも対象に向けているとは限らない。
「一体誰に話しているの?」と感じることが多々あるから感じられるのだが。
「武禅」では対象の人、向かいに座る人に対して、という訓練をする。
それは、日常の中では「対象者」という自覚が希薄だからだ。
希薄な関係性の原因は、人を目で見えるし耳で声が聞こえる、そして声も出せるからだ。
だから、改めて人と向かい合ってみると、確かに向かいに座る人は、その人の前に座る自分では無いことに気付く。
その状態で、例えば「こんにちは」と言う。
声は前に座る人には届かない。
どこか空間に霧散している。
しばらく繰り返すと、お互いに気付いていく。
どちらも対象者がいない事に。
そんな時、「エネルギーが足りない」となる。
では「エネルギー」は出そうと思うと出るものなのか?つまり、「エネルギー」そのものの正体は何か?という問題意識が無いまま「エネルギーが足りない」と誰もが使っているのだ。
そんな時、遊びをやる。
すると、その直後はお互いに対象者が現れる。
遊びで気持ちが高揚したからだ。
では、気持ちが高揚したりするようなことが「エネルギーが出ている」ということなのか?だ。
もちろん、現象の一つとしてそれもあるが、あくまでも現象の一つだ。
エネルギーの正体は「どうしてもこの人に」という、人に対しての意志の強さなのだ。
それが特定の人に対して、というところから、「人全般」つまり、どれだけ「人を好きか」と正比例するものでもある。
改めて「人を好き」というと、変な感じがするが、そうとしか言葉が無いのだ。
人は人という種類の動物であり、その種の中で生きている。
その意味で、好きという言葉を超越している筈なのだ。
もちろん、趣向としての好き・嫌い、合う、合わないはあるが、大前提、基本的条件として、犬は犬同士が自然と仲良くなるのと同様に、人は人と自然と関わるものだ。
にも関わらず、そうならない、関わる為のエネルギーが足りないというのは、
つまり、関わるというエネルギーを止めているのは、自意識と比例した、先入観や固定観念や概念なのだ。
だから、エネルギーが足りないというのもあるだろうが、それは生命力が弱いということだ。
そうではない場合、エネルギーが足りないことなど有り得ないのだ。

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