他人を羨むから、自分は?となる
ドラムをやっていた時、ドラムの技術が必要だった。
自分の表現したい音楽があり、それに技術が必要だったからだ。
で、技術ということを考えた。
まずは、自分の持つ技術に見合った音楽しか表現できないと考えた。
だから、技術の必要性あるのだと。
しかし、もう少し考えると、自分の持つ技術を十分に使っているのかと言うと、そうでも無いような気がした。
そこから、自分の持つ技術を十分に使った結果から、次の技術の必要性があるかどうかを判断すれば良いと考えた。
十分に使った結果というのは、自分がやるべき音楽から見て、ということだ。
何を言いたのかと言うと、自分の現在を十分に使っているか、ということだ。
隣の家の花は赤い、というように、自分以外の事を羨む傾向を人は持つからだ。
もちろん、そうでは無い人も沢山いるだろう。
しかし私は、子供の頃を振り返るとそうではなく、人の持つものを羨んだり、人の生活を羨んだりしていた。
自分を知らなかった頃だ。
そして、自分を知るという言葉さえ知らなかった時代だ。
自分を知るということ知りだしたのは、中学生の頃だ。
もちろん、全人格的に知るということではない。
人と比較出来る世界を持ったことだ。
器械体操だ。
技を豊富に持つ、他の学校の選手を羨んだ。
しかし、こればかりは今直ぐ追いつけるものではない。
それは、私も選手だからどれ程の時間がかかるか想像が付くからだ。
であれば、自分の持つ技に磨きをかけて、豊富な技に勝てる美しさを出してやろうと考えたのだ。
つまり、自分の持つ技を十分に使って勝負をしてやろう、ということだ。
羨むということは悪い事ばかりではない。
羨むから「では自分は」という発展もあるということだ。