達成感は単なる自己満足にすぎない
結局のところ、大方の人は手応えを求めている。
手応えというのは、文字通りの手応えと妄想の手応えの二種類ある。
文字通りの手応えというのは、対象のものが変化したこと、あるいは、何かが完成したこと、という具合に自分自身の内なるものの事ではない。
妄想の手応えというのは、自分が「やった」という達成感・満足感があることを言う。
道場を建てている時、何百本という数の釘を打った。
短い釘から15cmのいわゆる五寸釘までだ。
何十本も打っていると、手応えが変わってくる。
「おっこれは」という時、釘はまるで豆腐に打っているように、何の抵抗もなく板に吸い込まれる。
これが文字通りの手応えだ。
大方は、後者の達成感や「やった」感を求めているのだ。
道場を作っていることでいうと、「完成した」というような事だ。
私自身の事を振り返ると、達成感など一度も味わったことが無い。
その原因は常に達成できないことを目指すからだ。
つまり、単純な結果に重きを置いていないということでもある。
もちろん、常に結果は出るが、「それがどうした?」というくらいの認識だ。
だから、次に進めるし、より深いところに進めるのだ。
そこから言うと、道場はまだ完成していない。
「ここはこうすれば」というような事がいくらでも湧いて来るからだ。
そして、そう考えられること自体、私自身が成長しているということの証だからだ。
この達成感は成功と同じような意味を持つ。
しかし、達成感を求めていないというのは、逆に「幸福」の真っただ中にいるということでもある。
だから、もちろん幸福感は無い。
それは客観的に自分を眺めた時、「幸福なんだろうな」というようなことだ。
現代は、様々な言葉が飛び交い、それに振り回されて生きている。
そこで重要なのは、自分の使う言葉の整理だろう。