おざなりにすると、おざなりが身に付く
誰に話しているのか分からない、というのは、話をしている当人にとっては、目の前の人、あるいは、周りにいる人にしている「つもり」だ。
もちろん、その言葉や言葉の内容は、その人に向けられたものだ。
「○○さん、どうしたこうした」と、○○さんと名指しているから、○○さんに伝えている。もちろん、それは日常の雑多な時間の流れの中では、また、忙しい仕事の中では、「私に言っていない」とそれを遮る必要も、目くじらを立てる必要もない。
という時間を日々過ごしているのが我々だ。
その時間の中で身に付くのは、相手が自分に確かに話しているのかいないのか、自分は確かに相手に向かっているのかいないのか、を感覚できるセンサーを遮断、あるいは、退化させて言っているということだ。
何時も書くように、誕生から自意識が芽生えてくる幼児までの間は、無条件に周囲に自分を届かせているし、対象のモノもハッキリしている。
しかし、言葉を覚え、知っていくことで、そのセンサーの変わりをしていく。
大方の人はその延長としての成人なのだ。
しかもゲームやパソコンだけで、事足りるようになっている昨今では、昔よりもそのセンサーの衰えや退化は早い。
人は自然に学習したり、人為的に学習することで、色々な事を身に付けていく。
それらは誕生から幼児になる過程を観察しているとよく分かる事だ。
つまり、学習していない事は出来ないようになっているということだ。
仕事の出来る人は、無意識的にでも出来るような学習をして来たのだ。
「武禅」を始めて10数回目の頃、ある大手企業の幹部の方が毎回受講していた。
会議や仕事、あるいは研修で、誰の話す事が大事なのかを見抜けるので、非常に楽になった、と報告してくれた事があった。
きちんと伝えようとしている人、ただ話しているだけの人を見抜けるようになっていたからだ。
ある研修を受けた時、その講師に「正面向かい合い」をしていると、講師の言葉がどんどんしどろもどろになっていったという。
それはそうだ。
単に覚えただけのことを、さも重要な事柄のように話している人など、一発で見破れるからだ。
しかし、それは見破ろうとしているのではなく、「ひたすら聞く」という行為の結果、相手は墓穴を掘るのだ。
赤ちゃんの目だ。
そして、赤ちゃんの持つ好奇心だ。
つまり、その後知らず知らずの内に身に付いた先入観や固定観念や固定概念を、削いで行く。
その事で、より深い関係や、本当に大事な人、重要な人と関われ、そういった人に関わって貰えるようになるということだ。
しかも知らず知らずの内にである。