思っても、思いは伝わらない
「思いを伝える」と書いたが、これは19日から始まる春の「武禅」のテーマの一つでもある。
もちろん、そこでその「方法」を知ったり学んだりするのではない。
方法で伝わるのなら楽で良い、そんなことを実感し、では「どうすれば」を育むヒントを得るのが「武禅」だ。
「どうすれば」というのは、人によって異なる。
だから、画一的な方法などどこにも有る筈もないのだ。
それぞれに問題意識のレベルや、使いたい環境が違うからでもある。
逆に言えば、画一的な方法はあっても、仕上がりは個々によって違うのだ。
10歳の子供も、20歳の成人も100m走は出来る。
そして早く走る方法を知る事も出来る。
しかし、実際に走ってみると、当たり前だがそこに時間差が現れる。
そういう個体差があるということだ。
この1月に恒例のパリでの武道ワークショップがあった。
そこで、毎回受講してくれる合気道と居合の先生が、受講後メールをくれた。
「今回も沢山の宿題をありがとうございました」というものだ。
この感覚が大事なのだ。
日本人の大方は直ぐに「方法」ということになり、結局何も出来ないまま、あるいは三日坊主に終わり幻滅して終わってしまう。
海外で熱心に受講してくれる人は、全員この宿題感覚を持っている。
「武禅」は、宿題を見つける場なのだ。
だから、自分で宿題を見つけた人は、成長が早く、受講していたらどうにかなると思っている人は、10年たっても何も変わらないという結果が出るのだ。
「思いを伝える」は、思いを伝えようとしても絶対に伝わらない、という実際を体感する。
それは絶対に伝わらないのではなく、現在の自分の思考法では伝わらないということなのだ。
大方は「思いを伝えたい」と思ったら伝わると「思って」いる。
思って出来るなら、ほんとにほんとにこれほど楽なことは無い。
そんなことはどうでもよい。
そんなことというのは、「思いを伝えたい」と思う事だ。
それよりも、昨日書いたように、それはどういうことなのか?と本気で考える必要があるのだ。
特に対象の人、つまり、誰に伝えたいのか、をより明確にしなければならない。
それは、明確に思う事ではない。
誰に話しているのか分からないような言葉、あるいは音声では伝わる筈もないのだ。
それは、何時も書いているカフェで雑談している人、あるいは深刻な会話をしている人たちを眺めればすぐに分かる事だ。
「一体誰に、誰と、話をしているの?」を感じ取れる筈だ。
「思いを伝える」ということのセミナーがあるかもしれない。
その先生は、あなたに伝えているのか、音を出しているだけなのか、その判別が出来なければ、伝える側に立つことは出来ないのだ。
「武禅」ではその訓練を徹底的にやるのだ。
まずは、自分に伝えてくれているのかどうかを判別する。
そこからだ。