万能の薬、何がなんでも

「思いを伝えたい」何とも良い話だ。
友達に、あるいは肉親に、彼女に、同僚に、部下に、上司に、とにかく、自分に関わる誰かに伝えたい。
では「何を?」あるいは「どんな?」を明確にしなければどうにもならない。
つまり、思いを、ということになると、その正体を自分で見つけなければならないのだ。
まず、それが第一歩だ。
そして、「どうすれば」ということになる。
言葉で事足りるなら、言葉を選ぶ。あるいは探せばよい。
しかし、それが音楽やダンスで、観客にということになると、そうは簡単ではない。
そして、もう一つ最難関がある。
対象は「他人に」だ。
そこが問題だ。
自分としては思いを使える最良の言葉だと思っても、相手はそうは思わないかもしれないのだ。
それは自分と相手は他人であり、全く異なった環境、人生を歩いて来ているからだ。
そこをどうクリアするのか、そこが問題なのだ。
「何とも良い話だ」というのは、その壁を超える努力をする、という意味でもあるのだ。
大勢の他人に伝える、ということをリアルに分かっているのかどうかも一つの鍵になる。
それは、一人の他人にさえも伝えられない、という事を体験しているかどうかにかかっている。
それは逆に、一人の他人に「どうしても」伝えたい事があったかどうかだ。
そこにある情熱が、全てをクリアしていくからだ。
何が何でも、という情熱。
この話とは直接的には、全く関係のない話だが、何が何でもという話だ。
先日東京教室に、年に一回、数年に一回しか来られない人が、本当に久しぶりに顔を見せてくれた。
体格は私よりも一回りも大きい。
力は果てしなく強い。
そういったお仕事をされているので、とことん身体を鍛えているからだ。
まだ、誰にも投げられたことは無い、と前回来た時におっしゃっていた。
今回も、そんな話も度々あった。
今まで出会った怪力の人の1,2を争う人だ。
武道の稽古が始まり、生徒が相手をする。
しかし、残念ながらビクともしない。
私が相手をする。
成程ビクともしない。
もちろん、他の方法もあるが、今やっているテーマだけでやらなければ意味が無い。
そこで「何がなんでも」なのだ。
相手はバランスを失い転げる。
「転がされることはそうそうないんですが」と喜んでいた。
これは生徒と私の違いとして「何がなんでも」という意志というか、意地というか、見栄というか、本気というか、そういった言葉に象徴される自我の強弱の違いがあるのだ。
これが工夫を生み、「どうすれば」を生み、実現へと繋がるのだ。

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