言いつけを守っていると、何も見えなくなる
社会というのは、親の言いつけ通り、学校の先生の言いつけ通りの実際は皆無だ。
但し仕事などは、言いつけ通りの事が多い。
その意味で、優等生や良い子はスムーズにこなせる筈だ。
と前回書いた。
しかし、言いつけを守って出来たのと、自分自身がやっていることに問題を持ち、あるいは疑問を持って出来たのとでは、同じ出来たでも頭の中にある、あるいは心の中にある知識や問題解決力、そして精神力や自意識は全く別物だ。
出来た→良かった、ですむ世界、終わる時間は精神的な強さや自意識の発達など必要ではない。
だからそれでよい。
それが間違っているのではない。
しかし、そんなことは小さな世界の話だ。
実際に自分と言う人間は、自分と言う人生を歩いていく。
そこにどんなアクシデントや人間関係が待っているのかは分からない。
言いつけてくれる人もいないのだ。
しかし、大体の事はそつなくできる。
それがまた、自分自身の中に問題意識や、疑問を持つのを妨げるのだ。
世に「問題意識を持て」という言葉があるが、これほど馬鹿げた言葉は無い。
実際として確かにそういうことなのだが、自分が自分に気付き、という一番肝心のところが抜け落ちているからだ。
自分が自分に気付くというのは、状況からみた自分自身の在り方やそつなくしている姿に違和感を持てなければ、そのこと、つまり、自分に気付くということは起こらない。
「自分が思う」ことはいくらでも出来る。
いくら問題意識を持とうと思っても、それが向こうからやってくることはないのだ。
自分の行動や言動と、状況との不調和に気づく。
そして、その事を契機として、自分の過去を振り返る。
そうすると、自分の人となりが見えてくる。
何を変えなければいけないのかは、そこから始まるのだ。