自分に気付いた

色々なジャンルの人に指導をしているが、その事をじっくりと考えると、どうも私は稽古の仕方を指導しているのだと気付いた。
◯◯をするのであれば、ここから始めた方が良い、といった具合だ。
稽古法は、もちろん、武道で培ったものだが、その基本となっているのは音楽であり器械体操だ。
もう少し遡れば、自転車に乗ることやボートを操ることかもしれない。
また、仕事もあるだろうし、道場建設もある。
それらが混在し、「であれば」という閃きを生んでいるのだ。
現代では、どうなるのか分からないけどやる、というようなことは「無謀」ということで片付けられる。
つまり、目的を持たなければ駄目、というようながんじがらめの状態を自分に強いることが、成功や実現、そして結果に繋がるという考え方だ。
私は「気持ちが動けばやっている」という、何とも原始的な生き方を貫いている。
だから、現在の私を10年前、あるいは20年前に予測もしていなかった。
つまり、現在の自分を目的として持っていなかったし、目標ともしていないかったということだ。
ただただ、古の達人の残した言葉、又、流派に残された言葉を、どうすれば現代に蘇らせる事が出来るかを試行錯誤しているだけだ。
いわば、現代からドロップアウトしているということだ。
とは言っても、社会的な関わりがあり、生活は出来ている。
定年退職もなければ保険も無いだけだ。
「生きてやる」だけだ。
それが幸せか不幸かは知らないし興味もない。
それすらも、誰かがほざいている幻想に過ぎないからだ。

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