使えていない不思議な言葉
「見られている」その事をどう自覚しているのか?
昨日は、そんなことも改めて考えさせられた。
では「見せる」というパフォーマンスなのだが、それは単にパフォーマンスをしているだけなら、永久に見られているから脱することは出来ない。
そういったことを踏まえて「表現」だ。
そして、そこにある重要な要素は意識なのだが、こればかりは言語化出来ない。
もちろん、思う事でも考えることでも、幻想を持つことでもない。
それらは、何時もの話になるが、誰にも見えないし、見えるのは「自己完結している」という気持ちの悪い姿しか見えないのだ。
だから逆に言えば、気持ちの悪い自分を表現しようとするのなら、それが一番ふさわしいことなのだ。
巷には「意識」なる言葉が氾濫しており、コンテンポラリーダンスを始め、あらゆる舞台でも日常的に使われている。
しかし、その意味は定かではない。
もちろん、私にも分からない。
どうして分からないのかというと、意識という言葉を使おうが使わまいが、その姿や振り付けに何一つ変化がないからだ。
もちろん、舞台が変化することもない。
だから使っている意味が理解できないのだ。
もちろん、そういった不思議な言葉は沢山ある。
「空間を使う」にしろ、「床を感じる」だの、いくらでも言葉はあるが、そうした時の姿も舞台も変わらない、何一つ変わらない。
つまり、コンセプトが変わろうが、作品の意味づけが変わろうが、舞台にあるその身体は何一つ変わっていないし、当然動きも癖のままだ。
だから、一体どういう理由で、そういった言葉を羅列するのか分からないのだ。
それは、ダンスということと関わってから、ずっとその疑問を持ち続けたままだ。
踊っている人、振り付けをする人、製作の人、そういった人達は、一体何を見ているのだろうと、何時も考えさせられる。
それらを具体化しようという気にはならないのだろうか。
それとも、具体化されていると信じているのだろうか。
であれば、それらは腐った宗教と同じだということになる。
そんなことを、今回全部吐き出して見た。
西洋ではどんな解釈、どんな具体があるのか、そんなことも知りたかったからだ。
案の定、それらに気付いてはいるが、解決はしていないということだった。
ということで、今回の2週間は、これらを具体化する方法を指導すると共に、その「どうすれば」を教則本化しようとしているのだ。
ケンゾー君が朝からスタジオに来たので、まず手首の使い方や手首だけを使った動きを試した。
こちらのワークが始まると、一人で黙々と工夫を重ねている。
自分自身のフレーズに取り込む工夫もする。
延々とやる。
ダンサーでそういった姿勢を見たことが無い。
もちろん、そんな姿は私にとっては当たり前なのだが、未だお目にかかったことが無い。
ケンゾー君の情熱が伝わってくるから、こちらも嬉しくなりあれもこれもとどんどんテーマを提供したくなるのだ。