考え方を変えれば動きも変わる
レンブラントの初期の作品だそうだ。
以前、アムステルダムでゴッホ美術館に行き、毒気に充てられた。
その後口直しにレンブラント等が展示されている美術館に行った。
その時は、ゴッホが余りにも強烈で、さほど印象に残らなかったレンブラントだが、この絵には釘付けになった。
フランスで彫刻をする芝田君の説明によると、木に描いているそうだ。
まあ、そういうことは別にして、情熱というか力というか、技術を超えたものが伝わってくる。
これが無ければ作品の意味は無い。
「上手やな」では、上手しか見えてこない。
つまり、技術に負けているということであり、その技術は自分の「何か」を現す為のものではない、ということだ。
こういった紙一重の事は、古今東西昔からある。
しかし、ここには「生活」というものと層構造になっているので、ある意味で仕方がないともいえる。
俗にいう「魂が入っていなくて」、技術だけで描き上げただけものでも、喜ぶ人は喜ぶ。
つまり、売れるのだ。
芸術家達は、そんな狭間を生きているのだ。
もちろん、では「魂が入っている」とはどういうことだ?という問題もある。
ここが解明できれば、相当面白いのだが。
今日は、朝9時30分からワークショップだ。
昨日は、何時もマルセイユで受講してくれている空手の先生と昼食を共にした。
「明日のワークの予定は」と聞かれたが、用意はしていないので逆に「あなたは何をしたいですか」と質問した。
先生は「私は打撃系だから、突きや蹴りをやって欲しい」という事だ。
で今日は肘のコントロールをやろう。
そろそろ準備をして、ロビーに向かう。
そうそう、今日の朝、「えっ」という事が朝食をとるレストランであった。
別段早くも無いのだが、7時過ぎにレストランに行くと、部屋を聞かれた。
で「410」と答えた。
すると係員が「ええ~」と驚いている。
部屋はノーマーク、つまり、そこには誰も泊まっていないということだ。
「そんなあほな」とやり取りがあり、「OK、問題ない」と解決した。
「どうして?何がどうなっているの?」だ。
午前中の稽古が終わった。
私がゆっくり出来るようにと、昼休みは3時間ある。
リクエスト通り「肘打ち」の基本と、その意味、そして使い方。
それらをゆっくりと行った。
どんな単純な動作も、1,2,3,と覚える人には、大変難しい。
全部を1として捉えなければ、身体は繋がって使えないからだ。
そして、当然スピードも出ない。
応用も含めてたっぷりのワークだ。
この週末は、武道系のワークショップが4つ程重なっているそうだ。
「だからか」と思う程受講者が少なかった。
何時もの1/3程、20数名だったからだ。
午後からは増えるそうだが、ワークショップが重なれば、どことも少ないだろう。
もうそろそろ迎えに来てくれる。
午後からのワークだ。