誰に話しているの?誰が

今、誰と話しているのか、今、誰と一緒にいるのか。
もちろん、目の前にいる人だし、目的とした人だ。
自分自身がその人と話をしたいと思った。
あるいは、バッタリ街で会ったから。
色々ある。
しかし、「本当にその人か」誰かではなく、特定のその人なのか。
これは、中々面白い設問だ。
「武禅」での向い合いの時、その視点に気付いた人がいたのだ。
単に「声が届く・届かない」ではなく、深く突っ込んだのだ。
しかし、誰がどう考えても「何を言っているのだ、自分は目の前の人と話をしているし向き合っているのだ」と思うだろう。
しかし、ここをシビアに追求する「武禅」では、その事が見えてしまうのだ。
「武禅」では「二人はバラバラで、一人ずつ別々に見えます」という言い方をする。
つまり、何を見るのか、何が見えているのか、を研ぎ澄ますから、普段の視点とは異なった視点になるから見えるのだ。
もちろん、それは特殊な事ではない。
誰でもセクションが進むに連れて見えてくる。
「私には話してくれていません」そんなことを普通に感じ取れるようになるのだ。
つまり、相手の人が上っ面で声を出しているだけなのか、自分に対して話してくれているのかが、明確に体感出来るから、自分にとって重要な人か否かを身体として見分けられるということだ。
このことは、今後の世界で最も重要な事だ。
それは、人工知能の発達が音声認識という形でもどんどん発達するだろう。
そうすると、その人の歴史や人間性という膨大な情報を含んだ「声」が、一挙に「音」に成り下がるということだ。
そして、その事が一般化されていくだろうから、人としての感性が今以上に退化する。
そうすると、「音」以外の情報を体感できない、聞き取れなくなる。
つまりは、人と人の目に見えない関係性というものが、失われていくということになる。
単純に言うと、人の温もりは消えてしまうということだ。
そこには無味乾燥な意味だけの言葉のオンパレードになるということだ。
とどうなるか。
もちろん病人が益々増えるだろう。
ところが薬等の発達でそれを防ぐ。
結局、薬に管理された、生物に近い人間もどきになるということだ。
与えられた幸福、与えられた健康に何の疑いもなく従っているという、気持ちの悪い世界になるのだ。
お互いが向い合って話をしていて、目の前の人に話しの出来ない人は、目の前のその人ではなく、「誰か」であり、逆に言えば「誰でも良い」ということ。
これは逆に言えば、話す自分は、自分であっても無くても良いということでもある。
つまり、自分が確立されていないという言い方も出来るということだ。
「そんな馬鹿な」となるだろうが、自分自身を確立するというのは、並大抵では出来ない。
つまり、自分自身というオリジナルでなければならないということだ。
どこにでも転がっている情報で満たされた頭の中身では、どこにでも転がっている「私」でしかない。
つまり、オリジナルではないということだ。
それは、例えば、首の挿げ替えが出来る仕事をしているのと同じだ。
「誰か」でも出来る仕事をしている「私」であれば、私である必要はなく、誰かでも良いということだ。
自分にしか出来ないこと。
そういう見方も必要である。
これは、私が10代後半に考えた事だ。
仕事とは何か?そういうところから考え出したものだ。
今思えば、「こんなことロボットでも出来るやろ」と50年前に思っていた事が、本当にそんな時代になって来ただけだ。
もしかしたら、その潜在的な危機感が「武禅」を生んだのかもしれない。

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