自分を信じる?ほんまか?

「自分を信じる」という言葉がある。
「信じる」ということを私は持っていない。
それは信じないからではない。
こと自分自身に対しては持っていないのだ。
自分自身にとっては、「信じる」という前に意欲があり、欲求があり、それを行動していく。
そして、何かしらの目的や目標があれば、「出来るまでやる」という、これもまた意欲や欲求と行動の三本柱でクリアしていくからだ。
そして、信じるというのは、盲目的ということではなく、信じるに足りる根拠が必要だと考えるからだ。
仕事などでは信用調査という機関まであるくらい、信じるに足りる根拠を求める。
私が道場を建てている時、木材の購入をしなければならなかった。
ある材木卸会社から購入するのだが、絶対に現金取引をしてきた。
もちろん、1万2万の金額ではない。
ある程度お金を貯め、それからそのお金で購入するという順だ。
数年すると、そこの支店長から「日野さん、お金が無くても注文してもいいで、工事の進行が遅れるやろ」と嬉しい言葉をかけて貰った。
私はそれを「信用を得た」としている。
つまり、木材会社に「信じるに足りる根拠」を見せ、そのことを認めてもらったということだ。
それは、その時に限った事ではない。
対社会的には、そういった行動を取る。
で、信じるという言葉を持っていないというのは、会社に信用を得るということで分かるように、全ては行動にあり信じていたからではないということだ。
信じたから出来たこと、という体験は、私には無い。
行動したから出来た、以外にはない。
何度も書いているように、中学の時に器械体操をしていた。
その時、私自身が優勝したり上手くなると信じていたのではない。
「やりたかった」だけなのだ。
だから、やりたいという欲求があり、意欲が湧き、行動が伴う。
だから、人の何倍も練習し研究できた。
自分を信じるという言葉が入り込む暇な時間を持っていないということだ。
もしも、「自分を信じる」という言葉が欲しいなら、信じるに足りる自分を作る事だ。
行動によって。
つまり、「自分を信じる」というのは、ある種の結果論であって、現在ではないということだ。
私は人に「自分を疑え」と言う。
私が私自身を信用出来ないからだ。
まだまだ私が信じるに足りる自分を作れていないからだ。

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