自分なりはあかんで、でも自分なりにしか出来ない。では

人は「自分なりに考えた」という。
それはあかんで、と私は言う。
これは最も至極な言葉で、大きな意味では例外なく「自分なりに」しか考えられない。
誰しも自分の頭を使うからだ。
では何が違っているのか。
それは数学を考えてみれば良く分かる。
公式や法則に則っているのかどうか、そして、どれだけ問題の本質に近づいているのか、そのことを客観的に認識しているのかどうかだ。
その三点が「自分なり」を作ったかどうかだ。
中でも重要なのは、客観的認識だ。
それは、「自分が何をしているのか」を知っているのかどうかにかかっているからだ。
例えば、このブログを書いていて、改めて読み返し「言葉が足りない」とか「説明的すぎる」とかを、書きたい事を基準として判定する。
そのことで、少なくとも自分が何を書いたかを知ることができる。
また、読み人が混乱するのかしないのか、というようなこともある程度読み取れる。
だから、ここで問題になるのは、その判定する自分自身の水準だ。
その水準が低ければ、判定も甘くなる。
では、どうすれば自分の水準が上がるのか。
そこに必要になってくるのが「目指すもの」の存在だ。
この作家のように書きたい。
この役者を超えたい。
この料理人より美味しい料理を作るようになりたい。
日本料理を極めたい。
武道の先生方で、素晴らしい先生方は、全て先生を持っている。
それは幾つ何十になってもその存在は内にある。
その存在は、自分の実力が付くほどに、自分より遥か前にある。
日本の伝統文化を支える慣習は、どこそこにあるものだ。

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