例外とは、そのものと徹底的に向き合うこと

思えば、あらゆるものは、その時点での例外から発生していると言っても過言ではない。
決して主流というか、その時代の本流からは、次世代は生まれないのだ。
毎日仕事をやっているのだが、それは「自分」でなくても、つまり、人が変わっても出来るようなことをやっている人が大多数だ。
普通に考えて、そこからは何も生まれない。
例外というのは、実は例外ではない。
自分の取り組んでいることに、徹底的に向き合っている、徹底的に考えた結果、というようにして生まれることだ。
戦でいえば奇襲作戦のようなことだ。
目的があり、それを徹底的に考えれば生まれてくる知恵、それを一般から見れば「あり得ない・例外だ」となるだけである。
角度を変えれば、何かしらの病気になり病院に行く。
医師に見立ててもらう。
そのとき、見立ての根拠が検査になる。
検査は一般化されたデーターが現れる。
しかし、人には個体差がある。
その個体差を見極めるのが医師の仕事だ。
データーには出ないが「おかしい」と見極める、つまり、例外を発見できるのが医師の筈なのだ。
そこから言えば、人はすべて元々が例外、つまり、個体差を持っているものだ。
しかし、人は一般化されたものを好む。
普通が良いとどこかで信じているのだ。
「みんなと一緒」が好きなのだ。
その意味は私にはさっぱり理解できないが、世間を見ているとその路線で生きている。
だから、世間の影響をもろに受けてしまうのだ。
武道で相手を掴む、というところから「触れる」という大事さに気づいた。
しかし、それは単純に「触れる」から気づいたのではない。
ものとものの摩擦や、環境の体感、ありとあらゆる日常から引っ張り出されたものだ。
つまり、普遍的な「触れる」により近づいたものだということだ。
そんな作業も結果的には例外になる。
先日「武禅」で、私の人生の話になった時、「私は普通に生きてる」と言うと、大方の人「それはない」と言った。
しかし、一番年長の女性は「いや、私は普通だと思いますよ」と言ってくれた。
それはない、というのは現象のことで、普通だと思ったのは、私の生き方を考えている思想の事だ。
12月12日の講演会では、そんな話も例外一杯にしようと思っている。
「分かりやすい標準語で」というと、武禅参加者全員が「あり得ない」と大笑い。
そう、私は一寸荒っぽい大阪弁、河内弁しか話せないのだ。
講演会の詳しい内容はhttp://ilt.jp/extra05/entry.html

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