口癖が人を作る
私を育ててくれた明治14年生まれの曾祖母。
その曾祖母ちゃんの口癖は、「やろうと思ったらとことんまで絶対にやれ」だった。
私が小学生の頃よく聞かされていた。
きっと、その言葉に洗脳されたのだろうと、今になれば気づく。
当時は軽い気持ちでその事を聞いていたが、年をとるほどにその言葉通りの人生を歩いている事に気付いた。
また、「自分の周りに先生は一杯いるから何時でも勉強は出来る」とも言っていた。
そんな言葉が、色々なことに興味を持たせ、前述の建築という中から自分を発見することも出来る事を教えてくれていたことを知った。
明治14年と言えば、幕末から明治維新に時代が変わり、まだまだ落ち着かない時代だっただろうと想像する。
そんな激動の時代に生まれ、大正・昭和の揺れ動く時代を、そして幾多の戦争を生きた人は強い。
曾祖母ちゃんの教育は、どんなことでも私自身に体験させることだったのだろうと想像する。
そこから問題を見つけろ、というようなことだ。
だから、それこそ言葉とすれば放任主義だった。
中学の頃、よその学校と喧嘩になり、真っ白のセーターが真っ赤に血に染まって帰ったとき、顔色も変えず「どうしたんや」と聞いた。
私は「階段から落ちたんや」というと「そうか」といって、黙々と家事をやっていたのを思い出す。
まさに動じないのだ。
そして最後は「自分で何とかしろ」だ。
もちろん、お袋もそうだった。
現代なら冷たい親だと周りは思うかもしれない。
小学校の時、父親がいない私を「可哀想な子やね」と周りの人が言っていたが、私には何のことがサッパリ分からなかった。
そんな言葉に踊らされる程弱くは無かったのだろう。
そんなことには一切興味がなかった。
もちろん、片親だということにも興味はなかった。
ただ、毎日遊んでいた、そのことに集中していたのだと思う。
そういったことを振り返ったとき、親が子供に対して始終発する言葉はつくづく大事だと思う。
その言葉が自分の価値観を決める一つになるからだ。
前妻とよく喧嘩をした。
それは、前妻の口癖が「危ない・汚い」だったからだ。
危なくもないし、汚くもないのに、自然と子供はその言葉を口にするようになった。
言葉と実際、そして実体が噛み合わなくなる入口がそこだと発見した。
実体の伴わない言葉をいくら持っていても、それは他人に響かない。
そんなことに気づかない人間に育つ入口でもある。
そんなことを子供の誕生と共に、素朴な問題として私の脳裏に染みついていったのだ。