表現は
明日から、秋の「武禅」だ。
今回は、私がヨーロッパを1ヶ月動きまわっていたので、秋と言っても晩秋になってしまった。
しかし、幸か不幸か最近の天候が不順で、何故か温かい。
ということは、真ん中の道場で夕ごはんくらいまでは出来るだろう。
毎年は、寒くて初めの「正面向い合い」を終えると、ストーブを焚いてカーテンで仕切った部屋に移る。
さて「正面向い合い」だ。
何と向かい合うのか。
もちろん、前に立つ人と向かい合うのだ。
しかし、ただ立つのではないし、ただ視線を合わせるのではない。
相手に対して意志が向いていなければならない。
もちろん、それは結果であって、それをするのではない。
では何をするのか。
と考えることも「武禅」の稽古なのだ。
カナダのケベックでのワークショップで、主催者は「表現」を学んだ事は無いと言っていた。
それは、アムステルダムのエイミーも同じだ。
正面向い合いは、「表現」だ。
相手から見て、自分を見られている、と感じなければ駄目なのだ。
分からなければならないのではない。
分かるというのは判断だから、「今、自分の前に人がいる、だから自分の正面にいる」という論理で捉えてしまう。
そうなると、本当に前の人が自分に向き合っているのかどうかが、分からなくなるのだ。
何時も書く「頭の納得」だからである。
だから、ここでは感覚を磨かなければならない。
もちろん、向かい合う側の人も、「向き合っている」と思うことではない。
本当に向き合うのだ。
理屈は無い。
本当にだ。
これは観客を掴むに繋がるし、共演者との関係を表現することでもある。
こういった静止の稽古から、動きの入った稽古へと繋げて行くのが「表現」稽古だ。
個々の、例えばダンスとか芝居とかは、また別のものと考える必要がある。
それらは、それぞれが熟成させれば良いのだ。
但し、この「向き合う」という体感覚を持って、でなければいけない。
来年のフィンランドでの「マクベス」は、もしかしたらだが、可能性が高くなってきた。
それに連れてアイディアがどんどん溢れてくる。
フィンランドでのワークショップは、この向かい合い一発になるだろうな。