嵐の前の静けさ
小学生の頃、余りにも勉強が出来ないから、親が心配して家庭教師を付けてくれた。
机に算数の教科書を広げ、隣で家庭教師が問題を説明してくれる。
成る程分かりやすく説明してくれるので、分かったような気になる。
しかし、一人でその問題をやってみると全く出来ない。
ここが私の物事を考える為の原点になる。
当時は、全く出来ないから面白くない→勉強をしない、という図式になっていた。
その事に気付いたことが原点なのだ。
説明されて分かった気になった、というのは頭だけの理解で、全く出来ないというのは、自分自身の問題解決能力が育っていない事だ。
しかし、ここを考えてみると少し矛盾がある。
私は小学1年生の時、始めて学校をさぼった。
覚えていないが、学校へ行きたくなかったからだ。
街をさまよい歩き、知らない道、知らない家々が何故か好きだった。
「ここはどこだろう?」と不安になる。
その不安で心細い状態にワクワクした。
知らないことをするのが好きだった。
自分で工夫をし、知らないこと出来ないことが出来ていくのが好きだった。
という私の性癖を考えると、学校で与えられた不自然な問題には、何一つ興味が無かったから、勉強をしなかったのだろうということだ。
おかげで、学校が指導する洗脳は受けていない。
だから、自由な発想が未だに出来る。
街をさまよい歩き、振りかかる問題や、好奇心が湧き「やってみよう」と思ったことは、殆どクリアしていった。
どれだけ時間がかかっても、絶対にやれるまでやった。
そんなことが問題解決能力という、生きる上での実力を養ってくれる土台になっているのだと思う。
説明されて理解することと、自分の力でやれる、という間には、相当深い溝があるのだ。
大事なのは、自分の力でやれること、その力を養うことにある。
時計は12時を回った。「武禅」までの空白の時間だ。
嵐の前の静けさとでも言うべき時間だ。
今回は、自分の何に気付いていくのだろう。
間違っても「理解できた」にならない事を祈る。