美しさは自分の中にある

身体を操るのに長けた人は美しい。
トップアスリートやアーチストだ。
それは、使っているのは目的や欲求なのだが、それを実現する為の工夫や努力が、実現させているからだ。
度々ここで紹介している競輪の西岡選手。
彼は一流だ。
彼のバイクに乗る姿は美しい。
真摯に身体と向き合い、真摯に工夫を重ねているからだ。
オフの日であろうが、一日中バイクに乗り、あるいは、乗らなくても身体に向き合っている。
先日来れたメールには、入院しているとあった。
レースで転倒して骨折したのだ。
しかし、足は動くのでその足に問題を与え、それで遊んでいるという。
つまり、それくらいの労力をかけなければ、「操る」というレベルには到達しないのだ。
武道の教室やワークショップで、つい先日のGenevaのワークショップでもこんな質問が出る。
「どんな練習をしているのですか」と。
大方の人は、突きを何本したり、刀を何本振ったり、あるいは型をやったり、と言うことが練習、あるいは稽古だと思っている。
また、練習や稽古をする時間を持っている事を練習や稽古だと思っている。
もちろん、そういった事も大事だが、それでは練習や稽古の時間が圧倒的に不足だ。
身体の部位や身体はどう動くのか、どう動いているのか、というようなことに注意を向けず、ただただ自分の目的や欲求に支配されているからだ。
だから、「私は一日中稽古をしています」と答える。
もちろん、それはそれこそ、自分の目指すところはどこか。
その目指すもののレベルによる。
ただ美しい字を書きたい、ということであれば、徹底的に手本になる美しい字を真似れば良い。
とはいっても、2,3日で出来るものではない。
小学生の頃、習字の授業があった。
そこでいくら書いても思い通り、つまり、手本通りの字が書けなくてイライラしたことを思い出す。
それは手本の字に含まれる要素を分からずに、ただただ書いているだけだからだ。
そんな思い出からも練習量がどれ程必要か、を考える事が出来る。
ただ、その時に手本の字以上の、それこそ名人の字に出会い、それに意味なく感動し、「そんな字を書きたい」とこころが響いた稀な人は、その道に入りひたすらそこを目指す。
そんな人がトップになる人だ。
だから、言えることは「身体を操る」ということを言葉を変えれば、その道の達人になることなのだ。
料理人の動きは美しい。
宮大工の姿は美しい。
書を書く人の手は美しい。
そういった「美しい」は、身体を超えたものがあるからだ。
世間には情報がアホ程溢れており、それに振り回される。
しかし、自分が自分の人生を作り、生きるのだから、習字の時間のようなことを思い出せば、そこに自分に大事な情報が詰まっている事に気付くはずだ。

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