身に付いたことが出来たこと
その昔、ドラム教室をやっていたことがあった。
それこそ、エルビンだのサンバだの、私の好きなドラマーや色々なリズムのノリだとか、どんな要素をもってどう応用しているのか等々を、皆に知って欲しくて教室をやった。
しかし、1年足らずで止めた。
原因は、習いに来る人は、家で練習してこないからだ。
そうなると、宿題も、次に教えようと思っていることも出来ない。
しまいに、バカらしくなって止めた。
「誰も求めていない」と気付いたからだ。
先日、将棋の8段位の人がバラエティに出ていた。
修行時代は毎日10時間以上研究したという。
そうだろうな、と共感した。
私もそれくらいは練習をした。
「それが」出来るようになりたいからだ。
その練習の成果は、スティックを持ってたかだか6ヶ月で、あるコンボのドラマーに抜擢され、その秋には、有名なアルト奏者に引っ張られ、コンサートで叩く様になっていた。
翌年には、フルバンドのドラマーと、着実にキャリアを上げていった。
教室に来て、言われたことが一寸の練習で出来たとする。
そうすると、何故か「出来た」になる。
その出来たと「身に付いた」は、根本的に違う。
出来たは「それが出来た」、つまり、出題された問題が解けた、であって、身に付いたは、出題された問題の要素が理解でき、同等の問題を出題できる、要素を応用し問題を作ることが出来る、という違いだ。
どんなジャンルでも、どんなレベルでも、ここの要素は同じだ。
「出来た」と「身に付いた」は、全く違うものだ。
もちろん、私の言葉で「出来た」は身に付いたを指す。