本部の稽古
本部の稽古は、弟子たちがたまったものを吐き出すという感じで、結局深夜12時30分頃まで続いた。
「数稽古に尽きるで」それしか道は無い。
ただ、そこにどれだけの工夫を盛り込めるかだ。それは、自分はどこへ行くのか、があっての話だ。
もちろん、行き先は遠ければ遠いほど良い。
その過程で得るものが変化していき、自分は本当にそこへ行きたかったのかどうかが見えてくるからだ。
ただ、一応どこへ行くのかを決めていなければ、歩くことも出来ないからだ。
高校の空手の先生がいい話を聞かせてくれた。
今まで教えた生徒の中で、「こいつはいける」と感じた生徒は一人いる、という話だ。
その男子は、成績はもちろん悪いが、ラグビー部に属し一生懸命やる生徒だ。
先生曰く「生きている」を感じる生徒だったという。
その男子が進路を決める時、東京の大学からラグビーでの引き抜きがあった。
しかし、学費も高く男子の家庭では無理だった。
先生は「借金してでも行った方が良い」と親御さんも説得した。
しかし、その男子は「自分は介護の仕事をしたいから国立の大学に行く」と言う。
高校の先生たちは絶対に無理だからやめろ、という意見だ。
しかし、空手の先生は「お前なら行ける、但し今ラグビーをやっているのと同じ様に勉強しろ」とアドバイスをした。
男子は1浪し無事国立大学に入ったという。
多くの生徒を見ていて思うのは、何でも良いから回りが見えない位集中出来る、熱中できる子が、結局何をやってもやっていけるということだ。
俗にいう回りから見た「良い子」では、どうにもならないという結論だという。
もちろん、色々な「やっていける」がある。
しかし、もっとも大事な事は「生きている」を回りに感じさせる人間かどうかだ。
これは、私の究極の結論だ。
「私は自分らしく生きている」といくら思ってみても、あるいは、考えてみても、結局は自分の頭の中の戯言だ。
「生きている」と感じられる人の元には、そんな人が集まるが、戯言の回りにはやはりそんな人ばかりしか集まらない。
それは、個人の自由だから正誤ではない。
但し、頭の中だけで生きると、現実という不確定な出来事は、全て悪い意味でのストレスになる。
もちろん、それも含めて自分で選んでいるのだが、人は「自分らしく」の方にしか意識は向かない。