出来た、というのはヒントだ

不思議なことがある。
合宿でもワークショップでも教室でも、今から何をするか、それはどうすれば良いか、を話す。
そして取り組んでもらう。
見ていると、まるっきり違うことをする人もいる。
そして、丸っきり違うことをしているのか、その指示された事をしているのかを、回りの人を見ることで確かめるということをしない人、私に自分のやることを確認しない人も沢山いる。
日本ではそういった、自分の殻の中でやる人が大半だ。
違う言い方をすれば、話を聞いていないのだ。
もちろん、私が行くフランスやベルギーでも、そういう人はいるが、日本程割合は多くない。
そして、「それは違うやろ」と、全く別のグループの人が忠告することも、日本では見かけない。
外国では、僅かだが見かける。
その違い云々はどうでもいい。
全て個人の違いだろう、という解釈をすることにしているからだ。
夏合宿でも、その典型的な事が起こった。
身体内部に線を作り出し、その線を端から順に辿るというワークだ。
もちろん、私の身体運動理論を知らない人にとっては「何それ?」だろうが、教室やワークショップに通う人達は、出来る出来ないは別にして知っている。
フランスからの2人は、「背骨」を自分の体重を介して感じるという定番の稽古があるので、その応用だと直ぐに理解していた。
そのワークを2時間やった。
もちろん、最高級難度の感覚の稽古だ。
だから、繊細な感覚に集中する力が必要だ。
1時間、何も言わずに放っておいた。
その辺りから、何度か見本を見せると、フランス人達はニコッと笑い出した。
そのニコッは、自分が取り組んでいることは間違っていない、という確信の笑顔だ。
それが分かるから、私もニコッと返す。
2時間経ち、「終わり」と告げる。
結果、フランス人2人と、日本人2人が程度はあるが出来ていた。
「それは何で」と全員に尋ねた。
間違った解釈で、間違った取り組み方をし、それを組んでいる相手と楽しそうに動きまわっている組もあった。
その姿は、ワークショップでダンサー達によく見かける。
そんな時よく言うのが「今初めて聞いた初めてのことなのに、どうして出来ると思い、あるいは、自分のやっていることを正しいと思えるの?これは技術ですよ、知らない技術を一瞬で、出来るほどあなた達の身体感覚レベルは高いと思っているの?一瞬で出来るのであれば、このワークショップに来る必要もないでしょう」と話す。
というように、間違う人、厳密な事に取り組んだ事のない人が大半だから、何時も繰り返す。
逆に言えば、私は英語を話せない。
精々小学生低学年レベル程度にしか、英単語も何も知らない。
今回の合宿は、英語の話せる人も、フランス語を話せる人もいないから、フランス人にとっては迷子になる合宿の筈だ。
しかし、私の拙い英語からやることを理解し、それに取り組んで「出来るというヒント」を自分の身体でもぎとったのだ。
日本人は日本語だから、話を理解出来る「筈」だ。
これは一体どういうことなのか?また、その二人のフランス人は、「頭が集中で満たされ、やる前とは全く違う感覚や意識の感じがする」と興奮し、成る程、表情や目付きが変化していた。
そして、恐ろしく静かになっていた。
つまり、意識が雑念に惑わされず、波が立たない状態になっているということだ。
それに引き換え、出来た日本人2人の表情も、出来たという興奮も感動も見えず、普段と同じだった。
つまり、「出来ただけ」なのだ。
その出来たヒントが、ヒントではなく「出来た」その単体だったのだ。
合宿に参加している人は、誰もが「出来る」を目指す。
しかし、先ほどのように「間違っていることも、自分が理解できないレベルなのかどうなのか」も検証せず、そして、自分の思い込みや、枠の中からでず、ただただ時間だけが過ぎて行くだけの時間の中にいる事を、自分が選んで作っていることにも気づかず、不気味な緩んだ表情を見せている。
それは間違いなく自分自身が選んでいる人生だと分かっていない。
「何だそれ?」

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