出来たというヒントというのは

「出来た」を目指した時、その「出来た」はどこへ行くのか。
その前に、自分自身のその時期の目標なり、大きく将来の目標なりが有る。
もしそれがなければ「出来た」は迷走することになる。
また「興味があって」というのが一番やっかいなのだ。
一体何に対してどう興味があり、それを知った、あるいは体感できた暁にはどうしたいのか、という、未来がなければ時間つぶし的興味でしかない。
いわゆる野次馬だ。
だからその「興味がある」というのは好奇心とは、また別の代物のような気がする。
好奇心は表に出て来ない、潜在的な自分自身の方向かも知れない。
つまり、目標という自分自身の未来があるから、その「出来たこと」は未来にくっつき、出来たことそのものが直接的にも間接的にも、自分自身の目標にとっての、あるいは、生きることにとってのヒントとなるのだ。
その意味で「できる事」は重要なのだ。
私の全てのワークは、「感じる」に尽きる。
但し「感じていると思う」ことではなく、本当に感じるということだ。
それは、自分自身の身体であり、感性であり、相手そのものをである。
それを拡大して行けば、場でありその場の空気ということになる。
それは、自分自身が生きる上での様々な選択を「記憶」に基づいた判断、体験に基づいた判断、常識やクセといった、先入観や固定観念から解放してくれるからだ。
「出来た」を、定番の「ねじれ」を例に取ると、それは腕から肩にかけてのねじれに始まり、腕肩上半身、そして下半身へとなり、結局全身を連動させたことになる。
これは、腕を刺激を通して感覚し肩に繋がり、上半身がねじれることで、これもその刺激を使って上半身を認知する。
更に下半身へと繋げ、全身を刺激の線で繋げる。
その刺激の線を記憶すること、そして辿ることで、意識的な動きから、身体の自然な動きが生み出される。
という「出来た」になる。
そうすると、それは意識的な動きではないから、美しい動きという結果になるし、線を順に感じることで身体はライフルの銃身になり、大きな力を生み出すのだ。
いわゆる全身を使う、という実際へのアプローチでもある。
つまり、誰にとってもこの事は役に立つワークになるということだ。
だが、「興味がある」という場合は、それらのことを「知識」としてしか吸収出来ない事になる。
自分自身がしっかりとした目的を持ち、ワークショップや教室に来てくれたら、それは間違いなく役に立つ。
貪欲に吸収して欲しいと何時も言うが。
東京ワークショップは、アクターズ・スタジオで、毎年の会場の1/4程度の広さしかありません。
ですので、定員制にしていますので、お早めにお申込み下さい。

https://www.hino-budo.com/workshop-schedule1.htm

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