視点の違いは

海外の稽古でも日本の教室やワークショップでも同じなのだが、動きを手本として見せたとする。
まずは外見の形や、運動の線を見る。
そして真似る。
問題はその後だ。
ある人は「この部分を使っているのか」と、私の身体理論を知る人は質問する。
ある人は「エネルギーがこのラインで動いているがそれで良いのか」というように、何かしらをイメージして質問をする。
大方がこの2種類のバリエーションだ。
もちろん、それにしか視点がいかない実力だから仕方がない。
動きを見せる時、重要なのは相手と接する部位であり、そこに違和感を持たせないことだと説明する。
それがどんな外見になるのか、どう見えている時がそうなっているのか、という視点は無い。
それはそうだろうと思う。
そこは視点の違いということで言えるが、実際には考える力の差、あるいは、自分の持つ価値観の差だ。
その意味で、垂れ流されている巷の動画を見ていると面白い。
同じような現象でも、自分が作り出した単語で説明していたり、さもオリジナルな現象だと説明している。
私自身のやっていることも含めて、世界にオリジナル等一切ない。
ただ組み立て方や感性が異なるだけだ。
ただ、組み立て方が変わると、見えないものも見えたり、逆に見えるものも見えなくするものだ。
もちろん、組み立て方というのはそれぞれの視点だ。
それらの正誤の話ではない。
本当にそうなのか?という話だ。
例えば、触れるだけで相手が倒れたとする。
その現象をやってみたいのか、それはどういうことか、と探求したいのか。
結局はこの2つ分かれる。
その現象をやってみたいのが間違いではないし、探求するのも間違いではない。
それぞれの自由だ。
やってみたい人は自分なりに、その現象に取り組めば良い。
そうすると、自分なりにその事が出来るようになるだろうし、探求していっても同じようにその事ができるようになる。
ただ、そこで現れる違いは、その現象をやってみたい人は「これにはこれ、あれにはあれ」という対処療法的なものとなり、違う動きとの共通項やもっと言えば、その原理の本質にまでは辿り着かない。
探求する人は、結局ここへ行く。
つまり応用が効くという自分を作り出す事になるのだ。

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