心身一如
「心身一如」という言葉は、現代ではビジネスの世界でも使われる。
もちろん、元々は道元禅師など、禅や瞑想など東洋思想が目指した言葉だ。
昔日の武芸者の少数もここを目指した。
一見深そうなことだが、単純に解釈することも出来る。
人は心身一如ではない時は無い。
ただここでいう心の状態がブレていたり雑音が多いだけだ。
だからブレているなりに心身一如だということだ。
深く言えば、判断ということを通り越している状態。
無意識的に反応している状態だ。
ここは深い。
キリがない。
私は身体が自動運動をしている時、という線の引き方をしている。
それは日常から考え出した答えだ。
もちろん、それは間違っているかもしれない。
しかし、正解であろうが間違っていようが、一つの仮説を立てなければ自分を前に進めることは出来ない。
「とにかくやってみる」である。
そして、自分で立てた仮説だから、その時点において間違っていないのだ。
ここが大事なところで、大方はここで結果としての間違っていないが欲しいのだ。
だから前に進める事が出来ないのだ。
私の教室に来る人でも、個人練習が間違っていたら困るので、という言い方をする。
たとえ間違ったことを1年2年と続けても、正解を求めて何もしない人より何十倍も正しい。
というのは、先程の仮説という考え方を持ってくるのだ。
間違ったことを3年続けたとする。
そして、その正誤の判断で「間違っている」と指摘されたとする。
具体的に「こう間違っている」と指摘されれば、その事を一瞬で理解できるのだ。
つまり、間違った事をやっているから、正しい事が理解できるということなのだ。
何もせずに、ひたすら正解を求めたり、探したりすることが、どれだけ自分の人生を無駄にしているか。
若い時には分からないのだろうが、それは考えが浅いからに他ならない。
自分の事なのだから、徹底的に考えれば良いのに、それをしない。