使い分け

自分の枠から出られないということを、どんどん拡大したり、逆に狭めて行くと結果として、自分の持つ意識の外には出られないというところに突き当たる。
それがお釈迦様の掌だ。
だからどうせいというのか?
意識のない世界へ行けとでもいうのだろうか。
先日、清水さんのライブに行った時、ぜんじろうさんも交えて盛り上がった話がこれだ。
言葉と論理だ。
もちろん、それは武器になる。
世間は言葉と論理の世界だからである。
しかしそれは、整合性のあることには適応するが、整合性の無い世界には適応しない。
感覚の世界には適応しないのだ。
あるいは直感の世界には適応しない。
もちろん、整合性を創りだす事は、言葉と論理で可能だ。
だがそれは、感覚そのものでも、直感そのものでもない。
「分かり合える」という言葉があるし、どうもその言葉がみんな好きなようだ。
そして、分かり合いたいと思い込んでいるし、分かり合えるものだと思い込んでいる。
もちろん、それは言葉と言葉の組み立ての世界としては可能だ。
同じ考え方というやつである。
それは逆に言えば意識は分かり合えたというものであって、感性的には分かり合えたのではないし、感性には言葉はない。
言葉として言えば「響いた」という実感しかない。
感動しかないのだ。
関係性の中においての化学変化だ。
また、意識は尾を引くが、感覚は直ぐに消えるし不確かなものだとされている。
しかし、私は逆に感覚こそが生命体としての人の武器であって確かなものだと「感じる」。
こいつはヤバイやつだ、と直感が教えてくれるが、判断は「大人しい人なのに」という。
そこの使い分けが大事なのだ。

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