久しぶりの顔と
昨日は大阪教室で、誕生日を祝ってもらった。
小さな居酒屋だったので、隣のテーブルの人達も一緒に歌を歌ってくれ、大阪らしい賑やかな誕生会だった。
教室には福岡から、来てくれた人や、8年ぶりに受講しに来てくれた人もおり、色々な話で盛り上がった。
8年ぶりの女性とはバレエの話。
福岡の彼とはかなり込み入った話とバラエティに富み、知らない間に最終電車になっていた。
福岡の彼は、福岡での自主連に参加している。
彼は珍しく素直な感性を持っており、どれ一つとってもまともな見解を述べる。
10年前に大阪教室に来ていたやんちゃ青年の一人だ。
「かかっておいで」というと、大きな体格で本気でかかって来るから面白い。
昨年の福岡WSの時にでも、「先生ガチで勝負してくれませんか」とかかって来てくれたくらいだ。
その彼が、良いことを言っていた。
「先生が他人に教えるということは、他人に自分を乗り越えて欲しいからですよね。そうでなかったら外に出さす必要など無いのですから」と。
もちろん、その通りだ。
私自身が試行錯誤し、きっとこうだろう、と発見したものを提示し、それを獲得できる若い人が出てくれば、その人はもっと先に進むことが出来る。
そうなると、私がその先を習えるかもしれない。
そんな思いが根底にあり、どんなジャンルにでも乞われたら教えることにしているのだ。
「その意味で、先生を踏み台にすれば良いんですよね」
「そうやで、俺を踏み台にしたらええんや。でなかったら俺が何をしているのかわからんことになるやろ」
至極最もな話だ。
福岡での自主連では、通称ふー子さんというダンスの先生がいる。
彼女は熊本だ。
だから、福岡の自主連は、遠方からの参加者が沢山いる。
私が教えていることを一番体感しているのは、やんちゃな彼だ。
ふー子さんは最近の受講生だから、その辺りのことは知らない。
だから、うまく噛み合えば面白い自主連になる筈だ。
こういった自主連は、みんなで切磋琢磨し、新たな問題、疑問、そして発見が発生するところに意味がある。
言われたことをやることには、何の意味もない。
最近も書いているように、出来ないことをグダグダと時間を費やしても意味はない。
「やっている気になっている」という自己満足のみだ。
出来ないのであれば、どうすればできるのかを考えれば良いだけだ。
出来ないことで、自分の欠点が分かれば、自分一人で工夫を繰り返せば良い。
結果を、誰かと試す、そして、また発見する。
それの繰り返しだ。
自分以外の他人がいる、であれば、他人がいなければできないことを徹底的にやる。
そこを間違えば、他人がそこにいる意味が無い。
そういったことを自覚した上で有るのが稽古である。