建築現場から見えること

窓の外に、建築現場が見える。
何の変哲もない現場だが、じっくり見ていると意外と面白い。
所謂構造が見えるし、その順序が見えるからだ。
最初にこれをやっておけば二度手間にならなくて良いのに。
ということも見える。
そういった手順や構造は、どんなことにも当てはまるからだ。
どんなことにもというのは、何かをやろうとした時、単に自分のやれることから取り組むのではなく、必ず完成予想図を作ってから、つまり、未来の自分、仕上がった状態が完全に見えてから取り組む、ということに当てはまるのである。
建築現場では、基礎を作るという作業から入るが、基礎というものがあるのではなく、そこには最終的にどんな建物になるのか、という仕上がりの全容が明確にあるから、この基礎でなければならない、が決定され作業がある。
それと同じで、明確な仕上がり全容を持たなくて、ただただ「自分の思い込み」で創りだしたものを基礎だと思って、あるいは、それが未来へと続く道だとして取り組んでも、数年後には現在と同じ状態か、あるいは、「自分には出来ない」と、自分壊しの結果になっている事が殆どだ。
その意味でも、思い込みなど糞食らえなのだが、思い込みも自分の頭の中に有るから、大方の人はそれを否定することをしない。
何かヒントになるような話をしても「そうでしょうか?」と否定する。
思い込みの奴隷、あるいは思い込みに振り回されているのだ。
現状維持が心地よいのだ。
もちろん、当人にはそのことは分からない。
目的を持つ人にとっては、このことはほんとに大事な事だ。
無駄な努力をどれだけしても無駄なのだから。
自分の目的に沿わない努力をして、何かが出来る筈もないのだ。
ただ、厄介なのは無駄な努力を好きな人も多い事だ。
汗をかいてやった気になる。それが快感の人も多い。
いわゆる根性があれば、という奴もこの類である。
もちろん、それが目的の人はそれが一番良い。
自分の理想を実現しているのだから。

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