使えるか使えないかは自分次第
よく「型」は使えない、という言葉を聞く。
それは単に「型」をかたちだと認識しているからであって、型が間違っているのではない。
型にある本質を抽出仕切れない人達が、型は使えないと言っているだけである。
どんなことでも型がなければ始まらない。
大事なことは、そこに潜む本質を抽出していくことで、それを稽古というのだ。
しかし、やっかいな問題が同時に有る。
それは型としての本質を抽出するのは良いが、自分自身のレベルとしての身体操作や考え方が、それに追いつかないことだ。
例えば、書道を一から習うとする。先生が手本を示してくれ、はねであるとか、とめ他運筆にとっての基本的な本質を指摘してくれる。
しかし、いくら指摘してくれても、書くという考え方や運動が身に付いていないので、一寸やそっとでは出来ない。
それと同じだ。
つまり、自分自身で指摘されたことを、指摘されたように工夫をしていかなければならないのだ。
そこをすっ飛ばしては、もはや型ではない。
ここで2つに分かれる。
出来ないから、すっ飛ばして自分なりに考える人と、出来ないから徹底的に手本の真似をする人とに分かれるのだが、何時の世も断然前者多い。
出来ないから自分なりに解釈し、意味を変えて行くのだ。
という事で、型が伝承されなくなっていくのだ。