自分なりの方向性は

人はどんなことでも、自分なりにしか考えられない。
ただ違うのは、自分なりに答えを出すのか、自分なりに問題を見付けるのかの違いである。
もちろん、自分なりに答えを出すと、その時点での自分のレベルにしかならない。
そういったことは、教室やワークショップで発見する。
人はどう成長するのかしないのかだ。
あるいは、身に付けていくのか、身に付かないのかだ。
例えば、「足は使うものではなく、使われるもの」というテーマがあるとする。
一つのケースとして、手が動く事に連れて足が動いていくをやったとする。
自分なりの答えを出す人は、現象に近い姿を作ろうとする。
そうすると、手がこれくらい動いた時に、足はこう動く、というような分析的な頭が働いていく。
結果、似たような姿にはなる。
ただ、その次に、では手に連れて足が動いたかどうかを検証する為に、足を誰かが力一杯押さえつける。
そうすると、足を動かしているから、足は動かない。
つまり、足は使われるものにはなっていないということだ。
しかし、そういった人はそこでも、足はどう動いた、腰はどうなった等々の頭を働かす。
結果、何をしたのか分からない時間だけが過ぎる。
その検証の種類をどんどん増やすと、同じように分析的に捉える。
つまり、一つの本質からの応用にはならず、これにはこれ、を並列で並べるしかないのだ。
分析的に考え構造的に捉えても、肝心のテーマーが失われているのだから、構造にはならない。
しかし、こういった人達は圧倒的多数だ。
本末転倒してしまう思考回路しか持っていないのだ。
もちろん、それは習慣が作り出したものだから、習慣を変えれば変わる。
「足は使われるもの」という言葉の型を、そっくりそのまま叩き込み、それに注意してひたすら取り組めば良いだけだ。
大方の人は、頭の満足を得る事が「何かが出来ていく」と思い込んでいる。
頭の満足は、頭の満足でしか無いのだ。

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