目的の逆転

例えば、何かの練習をするのは、そこに目的があるからである。
私で言えば、例えばドラム。
それは、自分の思い描く音楽があり、それを実現する手段としてドラムを選んでいるからだ。
また、そこに二重に絡んでいるドラムという楽器に向かう事、ドラムを演奏することで溢れる、私自身のエネルギーとでも言うべきものが好きだからである。
それらを表現するためには技術が必要だ。
だから、直接的にはその技術を練習していく。
技術は技術で修得するのは簡単ではない。
しかし、ドラムをやり始めた当初は、さほど難しいとは思わなかった。
それよりも、演奏する事の方が楽しかったからだ。
稚拙な技術を、稚拙に見せないようにするにはどうすれば良いのか。
逆に言えば、その時点での技術を目一杯使い、音楽として聴かせる事に精を出していたからでもある。
技術とは別に音楽そのものに対する感性が、どんどん造詣を深くしていく。
結果、技術そのものものを、より高度な事を要求するようになる。
すると、技術の難しさが顔を覗かせるのだ。
つまり、単純に技術を修得するのが難しい、というレベルではなく、自分自身の持つ音楽の深さが、その実現を困難にさせるという意味での難しさなのだ。
もちろん、これはそっくりそのまま武道に置き換える事が出来る。
何を言いたいのかというと、技術は常に目的ではなく手段だということである。
音楽であれ、武道であれ、それに取り組む人を見ていると、多くの人はここが逆になっているのが目につく。
その技術が出来る事が目的になってしまっているのだ。
だから、そこからは音楽が聴こえてこないし、武道も見えてこないのだ。
つまり、聴く人、見る人のこころに届かない、響かないのだ。

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