何光年まえの光のように

一つの技術、例えば突き。
今見ている突きは、それこそ天空に光る何光年前の光のように、何十年の蓄積であって今ゼロから作り上がったものではない。
そして、その突きが見せる現象も同じである。
私は、どういった経緯で出来上がって来たのかを、推理するのが好きだ。
その場で見えている現象ではなく、経緯こそ楽しめるからだ。
また、経緯にその人の考え方や、体験が詰まっているからであり、そこに本質が潜んでいるからでもある。
経緯を推理する事で、「これは無理」と分かることが沢山ある。
似たような現象を起こす事は出来るかもしれない。
しかし、それには全く興味が無い。
というのは、それはあくまでも似たような現象であって、その人のそれではないからだ。
例えば「合い気上げ」は、ああだこうだ、と色々な説があり、その動画も沢山ある。
私自身、その合い気上げなるものが、どんな経緯で生まれ、どういう価値を持って稽古されているのを知らない。
だから、その現象に似た事が出来たところで、一体それがどうしたの?というしかない。
それよりも、それを産み技として名称を付けた人、あるいはジャンルに興味が湧く。
その事で、その技が要求しているものが理解出来るかもしれないからだ。
ただ、身体運動として考えればこうなる、と何通りかの事は出来ても、それが合い気上げなるものでないのだ。
これを書いていて思いだした。
20数年前に生徒の一人が、これはどうすれば良いのか、と質問された。
その時は、「何、それ?」つまり、それが出来る事にどんな意味が有るのか理解できなかったのだ。
それこそ運動的には、肘の操作で出来るからそれを提示したが、そこにある「触れる」という、最高級難度の技術が同時にあるので、実際は出来ないよ、で終わった。
こういった武術、あるいは武道系の技の難しいところは、運動と重なっており、その運動だけを取り出す事が可能なところだ。
もちろん、それも現代においては楽しみの一つだろうが、運動が出来たからといって武術的に、あるいは武道的に出来ているのではない。
それを編み出した先人の必然性まで、辿りつけなければ意味が無いのである。

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