重箱の隅を

自分に適したやり方を見付けるとは言うが、自分で編み出すのではない。
手本の中からパーツとして取り出し試すのだ。
一番自分にしっくりくるパーツ。
そして繰り返せる事。
一回一回ではなく、連続して出来る事。
しかし適度な複雑さと難しさを持ち、飽きがこないようにすることも大切だ。
私は飽き性だから、何時も練習するパーツを飽きが来ない工夫する。
もちろん、ここには個人差が有り、思い切り単純作業が好きな人もいる。
そういった人は単純なパーツが一番だ。
例えば突き全体をパーツとして引き出すのか、肘だけに絞るのか、というようなことだ。
しかし、パーツがスムーズに出来ても、次に難しいのはそれを他のパーツと繋げたり、全体に持ち込む作業だ。
例えば、役者達は発声を稽古する。
そのままの発声を舞台に持ち込んでいる場合が多い。
だから音しか聞こえてこない。
やかましいだけだ。
つまり、難しいのは現場に持ち込むことなのだ。
取り合いが一番難しい。
とはいうものの、そのパーツがスムーズに出来なければ、現場も全体も質の高いものにはならない。
だから、全体とパーツとの往復運動がどんな場合でも大事になってくるのだ。
その意味で、現在の自分の出来る範囲での往復運動が大事なのだ。
それを大方の人は、パーツに拘り重箱の隅を突くが如く稽古になる。
そうなると前には進まない。
今、競輪の選手を指導しているが、彼には膝の一点から胸骨操作を繋げる、膝の一点から足裏一点に繋げるという感覚を磨いて貰っている。
ここだけに拘ると重箱の隅を突くになる。
しかし、彼は常にレースがありそこで試していく。
そして重要な事は、競輪で結果を出すことに有る。
それが彼の全体だ。
彼が自転車を操る事に長けていった時、自ずと結果が付いて来る。
そんな事が部分と全体の関係だ。
全体を持たない人、認識できていない人、自覚のない人が、部分を練習するということは、重箱の隅を突くだけで何一つ完成する事はない。
もちろん、それもその人の人生だから決して間違っているのではない。
それでも良いではないか。

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