次に進む

1月10日セントジェームスライブ!
皆さんの協力で、現在残り席は半分くらいになっています。
会場がジャズバーですので、各時間定員は50名足らずです。
お早めにお申込み下さい。
よろしくお願いします。
https://www.hino-budo.com/live.html
次に進む。
これを意識的にするには中々難しい。
きっと意識的にするのは、間違っているからだろう。
つまり、次に進むという意識ではなく、そこにある別の動機が必要なのだ。
これは、武道の体術で考える直ぐに分かる。
つまり、例えば、腕を極められているとして、そこから脱出しようと思う。
それが次に進むだ。
脱出しようとすれば、脱出しようと思ってはいけないのだ。
そこで具体的に何をすべきかに取り組む。
例えば、胸骨から腕を動かす、というような事だ。
そこに集中する、集中しているということが、次に進んでいることだ。
しかし、人は往々にして「脱出しよう」に拘る。
あるいは、胸骨から腕を動かすに拘る。
それが「居着くは死」だ。
胸骨から腕に拘るのは、まだ進化しているから良い。
しかし、それも不可能な状況はある。
となると胸骨から腕への精度を上げる、という一手、あるいは、それも捨て全く異なった方法を編み出すのも一手だ。
そういった事が、次に進むということだ。
大局は何なのか。
この場合は、腕極めからの脱出だと思いがちだ。
しかし、それは人生の一部、人生の進むべき方向の一部だ。
この人生の進むべき方向、というのが大局だ。
そこから見れば、この事は捨てても良いことかもしれない。
もちろん、具体的にこういった局面を持つ格闘家にすれば、捨てても良いことではなく、クリアしていかなければならない事だ。
その場合の次に進むというのは、腕を極められるという前提にすることだ。
つまり、自分にとって都合の良い側から考えるのではなく、最悪の状態から考えるのだ。
この場合、腕を極められそれに対応するというのは、異なる運動を探すことになる。
そうすると、質的には同じだから次へ進むではない。
並列で色違いなだけだ。
結局、後は悪い意味での偶然に頼るしか無いのだ。
全く違った身体論を持ち込まなければ進化は無いということだ

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