テレビドラマのような嘘くさい日常
「武禅」レポートをアップしています
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一人が歩き、その後ろから前の人を呼び止める。
「武禅」の“声を届ける”の一コマだ。
簡単なようで出来ない。
それは、本当には呼んでいないからだ。
ただそのワークだから声や音を出しているに過ぎないのだ。
前を歩く人は、訓練を積んでいなくても、自分に呼びかけられたか否かは直感的に分かるものだ。
ただ、判断を通したらそれも曇ってしまう。
そこにある状況を判断し、反応のようなことをするからだ。
そして、もっと質が悪いのは、「後ろの人呼んでいるのだから・それでもいいんじゃない・後ろの人に嫌われたくない・反応が鈍いと思われたくない」他の、馬鹿みたいに幼い自意識を優先させる場合だ。
ここは稽古をする場である、だからシビアでなければいけない、という自覚も消えてしまっているのだ。
そうなると、その人と組んだ相手は災難だ。
出来ていると思ってしまうからだ。
しかし、それも社会の一部にはある。
そんな幼い人の意見を「幼いんだな」と選り分ける目も必要なのだ。
そういった、自分を可愛いがるだけの人は、人を壊してしまうということが、こんな例で見えてくる。
「だって、可愛そうだから」というような台詞を吐く人だ。
可哀想なのはお前だろう。
年齢相応の自意識が育っていないのだから。
今回はたまたま役者が3人もいたので、一般の人がそのワークをするのを観察させた。
「呼び止めているようだ」という観察結果だ。
しかし、現実には前を歩く人の足は止まらないし、振り返りもしない。
後ろの人は前の人を「呼んでいない」のだ。
しかし、呼び止めているように見える。
つまり、その目で日常を舞台を見ているということだ。
であれば、関係性が明確に見える舞台など作り出せる筈もない。
役者達は、もちろん全滅だ。
というのは、舞台と同じようにお芝居をするからだ。
お芝居では段取りがあるから、前を歩く人は振り返ってくれる。
しかし、現実には呼んでいないのだから振り返らない。
現実は、本気でなければ本当は厳しいのだ。
もちろん、テレビドラマのような、あるいはお芝居のような日常に満足している人はそれで良いのだが。
私は嫌だ。