声を届くのは感情が動いているから
「武禅」レポートをアップしています
https://www.hino-budo.com/buzen5.html
大声を出すことと、相手に届かせる事は、全く関係がない。
もちろん、声が聞こえるのか聞こえないのかでは、声の大きさというか通りというか、そういったものは関係する。
ここの混同が発声練習に置き換えられてしまうのだ。
「武禅」での“声を届ける”の中に“ナマムギ合戦”がある。
その時には、相互に大声が出てしまう。
大方の人は、日常で大声を出した経験がないか、あるいは皆無に近いかだから、最初は戸惑う。
しかし、時間と共に大声が出だす。
ここで起こっているのは、声を出すというエネルギーが溢れたということだ。
これは、その事によって逆説的に、感情が動き出すのでそれを喚起させる為の大声だ。
大声を出さない人、出せない人というのは、感情の起伏が乏しい。
というよりも、乏しくなるように自分が抑えこんでしまっているのだ。
これは、レポートを読んでいて知ったことなのだが、「感情を露わにするのはいけないことだと思っていた」と書かれている事が多いのだ。
何時から、そんな馬鹿げた理屈が現れているのか知らないが、その一点で人間臭さ、動物的生物的、つまり、生き物としての実態を壊しているのだ。
感情の起伏が大きいということは、それだけそれを制限する理性の働きが強くなる、という、いわば両輪だ。
だから、感情の起伏の少ない人は、理性は育っていないということでもある。
発声練習によって培われた声が、相手に届くのではない。
まずは、この感情が相手に届く為の第一関門だ。
つまり、発声練習によって得られた声がいくら素晴しかろうが、それは単なる「音」だから届かないのだ。
役者や俳優の場合、そこに「感情表現」という芝居を放り込む。
しかし、これは自らの感情ではなく、感情のようなもの、感情に見えるようなものだから、実際とは何の関係もない。
だから、相手にとって違和感を持つことはあっても、届くことは無いのだ。