白い目を持つ?それが自分を上達させるコツ
東京ワークショップ
9月12.13.14.15.16日
https://www.hino-budo.com/2014TokyoWS.htm
白い目という言葉を良く使う。
それは、ダンサー達と関わるようになってからだ。
専門家の目でもなければ、仲間の目でもない。
本当に素人の目という意味だ。
それはどうしてかというと、対象が素人だからだ。
一般の人達が対象である筈だ。
仲間だけに見てもらう為に演っているのではないだろう。
仲間に「良かったよ・きれいだった」というような、訳の分からない感想を貰う為に、あるいは、口先だけのお世辞を貰う為にやっているのではないだろう。
また、訳の分かったような分からないような、専門家に見てもらうために演っているのではないだろう。
一般の人に喜んでもらう、あるいは感動をしてもらう、そんな事が目的の筈だ。
であれば、白い目を持つ必要がある。
ある大学の舞踊科で、作品を見て欲しいと頼まれた事があった。
短い作品だったが、見終わってからコメントを求められ「何を演りたかったのか分からない、一体何だったの」と言うと、泣かれてしまった。
リーダーは作品を説明してくれた。
「そんなことはどうでも良いから、一体何だったの?」と再び言うと、学生たちは途方にくれていた。
説明が必要な舞台なら、逆に説明書きだけを舞台に貼り付ければ良い。
昔フリージャズをやっていた時、批評家達はこぞって難解な言葉を使い、音を現場から葬り去った。
それはミュージシャン達も、その批評に乗せられ、まるで哲学をやっている気になってしまったからだ。
結果、舞台から、出る音から生気が失せ、どこへ行ったのか分からなくなったのだ。
コンテンポラリーダンスの世界も同じ道を辿っている。
質が悪いのは批評家がリードしているのかもしれないが、大方がダンサー側振り付け側から、まずその難解な言葉が出ることだ。
「そんな難解なものを見たくもない」説明書がいるような作品を見たくもない。
先の泣かせた学生達は間違ってはいない。
教授達が教え込むから仕方が無いのだ。
色々な立場があるだろうが、絶対に必要なのは「白い目」だ。
演っている自分だけが楽しい舞台を誰も見たくない。
楽しそうなフリをしている舞台も同様に、見たくもない。
それは白い目を持てば誰にでも分かる事だ。
そんな目を育てる、というのも私のワークショップの目的の一つでもある。
「見る作品が無くなりました」常連たちは口を揃えて言う。
だから、その目を持つあなた達に作って欲しいのだ。
岡山ワークショップ
9月21.22.23日
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