舞台の世界は

東京ワークショップ
9月12.13.14.15.16日

https://www.hino-budo.com/2014TokyoWS.htm
夏合宿には、「山の手事情社」の木浦君も久しぶりに参加した。
宴会の時、演劇や舞台の話を沢山した。
作品が役者を埋没させてしまう、逆にそれが役者にとっての保険になり、実力を付けられない、作品としては演出されているが、観客に対しての演出ではない。
作品は、この現代の今という時期に必要な物なのか。
そんな話に華が咲いた。
しかし、話に華を咲かせるのは簡単だが、ではそれをどうすれば実現させる事が出来るのかが難しい。
舞台上で関係性が見える、というのも同じだ。
いくらでもそれは語れる、空間を支配する、あるいは、感じる。
どれもいくらでも語れる。
しかし、実際にそれらが存在する舞台など見たこともない。
昨日の話の続きになるが、言葉はそれだけで世界を持つ。
つまり、完結させることが出来るということになる。
それが文学であり、詩であり、俳句、あらゆるコピーの数々だ。
しかし、それとは別の世界が舞台だ。
そこでは文学そのものが無ければならない。
あるいは、音楽そのものが無ければならない。
それは、喋れば良いだけでも、音を鳴らせば良いだけでも、身体を動かせば良いだけでもない。
それは、文章を書けるだけと同じだ。
もちろん、どのレベルの舞台を目指すのかで、文章を書けるレベルでも成立することもある。
沖縄のワークショップで、一寸チャライ若いダンサーに
「チャラーって楽しいことの、なにが楽しいの?別にそれが楽しい奴はそれでええよ。けど、ずーっとそこのレベルやで。それより、10年かかっても20年かかってもええから、積み上げて積み上げてたどり着けるレベルのところで感じられる、『楽しい』を、オレは感じたいねん。できへんことを、やりつづける。毎日毎日やりつづける。ほんなら、あるとき、ひゅーってレベルが上がるねん。そしたら、楽しいから、またやるねん。オレは、それがえええ。ちゃら~っとした楽しさなんか、絶対にいらん。それやったら、死んだほうがええ」と話した。
もちろん、何を選択するのかは個々の完全な自由だ。
ただ、この場合は、折角私のワークショップに来ているのだから、その時だけでも背伸びをし挑戦しなかった損だという話だ。
つまり、別の世界を見なければ損、体感しなければ損という事だ。
自分と近い、あるいは、自分を受け入れてくれる、そんな場は自分をはみ出させることは出来ない。
こんな話もした。
「そのままでいいんだよ、アホか、そのままでええんやったら、アホのままやんけ、ええわけないやろ」
岡山ワークショップ
9月21.22.23日

http://workshop.digiweb.jp/

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